山茶花


第二話 紅梅

 時三郎が、お峰の生家である茶店の客としてやって来たのは、二年近く前のことだ。

 冬の気配を残していた風も昼過ぎには止み、うららかな日和になった。参道に並ぶ梅の蕾は、まだ固く、参拝に訪れる人もまばらである。
 おとっつぁんは近在の寄り合いに出かけ、おっかさんも末の妹が産気づいたと使いが来て、少し前に慌ただしく茶店を出て行った。
 空の野菜籠を背負った老女の客を見送り、片づけを終えると、お峰の仕事は一段落した。最初はあぶなっかしかった茶店の手伝いも、近頃はすっかり板についた。

 お峰の生家は、王子稲荷神社の参道にある、こぢんまりとした茶店である。参道に面して、赤い毛氈もうせんを敷き、煙草盆を乗せた縁台が置かれている。軒下では、甘酒と染め抜かれ少々色あせた布が、時おり風に揺れている。
 あとひと月ぐらいで、川向こうの、飛鳥山の桜が咲き始める。花見と参詣に立ち寄る客が、大勢やってくるだろう。この小さな茶店も親子三人で、てんてこ舞いになるはずだ。白く淡く薄墨を刷いたような、桜が満開の春を想って、お峰の心は、やはり浮き立つのだった。

 ゆっくりと雲が流れる様を眺めながら、お峰は朝餉あさげのとき、おっかさんがしていた噂話を思い出した。
 庄屋のお嬢さん、そうそう、お美代ちゃんにね、縁談がきてるんだってさ。何でも大晦日に狐火を見に来たときに、見初めたんだそうよ。蝋燭ろうそく問屋の跡取り息子だって、めでたいねぇ。
 手習いで机を並べたこともあるお美代は十六で、お峰より一つ年上だった。お峰のことを実の妹のように可愛がってくれたが、今ではきれいな振り袖を着て、しずしずと茶店の前を通り過ぎるだけである。
 あのお美代ちゃんがお嫁に行くかもしれない。そう考えると、お峰はなんだか落ち着かない、おかしな気持ちになった。
 蝋燭問屋の跡取りって、どんな人だろう。お美代ちゃんと似合いの夫婦になれるのかしら。
 いつの日か自分も、誰か好きあった人と添うことができるのだろうか。楽しみのような怖いような、そんなことをつい考えてしまう。

 一陣の風が舞った。砂埃を巻き上げ、春を告げる風だ。茶店の軒先に垂らした幕が、音を立てて震える。
 袂で顔をおおったが、間に合わず、お峰は店先で目をしばたたかせた。
「すごい風だね。少し休ませてもらおうか」
 思いがけず近くで男の声がして、半歩ほど飛びすさる。
 まさか、狐が化けたんじゃないわよね。
 お峰は盆を抱えたまま、背中から荷をおろしている男を眺めた。
 稲荷神社のお膝元だけあって、この界隈では狐に化かされたという風聞に事欠かない。
「たとえ、お狐さまだったとしても、普通のお客様と同じようにするんだよ」というのが、父親の口癖だ。じゃあ、おとっつぁんは、お代が葉っぱに変わってもいいのと、お峰は訊ねたことがある。誰のおかげで、この店があるんだと、溜め息混じりに諭されて以来、二度と問い返したりはしなかった。
「団子と、それから甘酒もいただこうかな」
「は、はいっ。ただいま」
 男をぼうと見つめていたお峰は、弾かれたように動き出す。甘酒を温め、炭火で団子を炙りながら、男を盗み見た。
 耳も尻尾も見当たらない。だが、狐が化けたかと思うほど、男の横顔は凛々しい。
 刷毛先を細く長く整えた銀杏髷いちょうまげと、女であったならと思わせる切れ長の眼。くつろいだ口元には、意外や人好きのする無邪気さがあった。
 ぱちんと炭火が跳ね、慌てて団子に醤油だれを塗る。芳ばしい匂いがした。

「お客さんは、小間物屋さんですか」
 海苔でくるんだ団子と甘酒をすすめて、問う。男が縁台に下ろした荷には、抽斗がいくつも見え隠れしていたからだ。
「ああ、ここいらの家を回ってきたところさ。お前さんは、紅や白粉に興味があるかい」
 聞かれて、お峰は曖昧に頷いた。
 もちろん興味はある。お美代ちゃんみたいに、きれいに化粧もしてみたい。でも、新しい着物も作れないほどの台所事情を思えば、とてもそんな余裕はなかった。
 お峰が今着ているのは地味な木綿縞で、今日産気づいた、おっかさんの妹からのお下がりだ。このところ急に背が伸びたため、裾からはくるぶしがちょっぴり覗いている。
 そんな逡巡を見抜いてか、男は面白そうに目を細め、甘酒を啜る。茶碗に添えられた手は色白で、細い指がしなやかそうだ。
 お峰は、ふと自分の手を見遣る。水仕事で荒れ、あかぎれをこさえている指先を。
 この手で甘酒や茶をすすめていたかと思うと、恥ずかしくなり、両手をそろそろと背中に回した。その動きを、男が見咎める。
「こりゃ、かわいそうに。ちゃんと手当てはしているのかい」
 お峰の小さな手は、男の掌に乗せられていた。暖かく、力強い手だった。
「いいものがあるんだ。ちょっと待ってな」
 男はそういうと、気ぜわしく風呂敷包みを解き始めた。濃鼠こいねずの風呂敷に包まれた丈高く四角い箱には、抽斗が沢山ついていた。それをひとつずつ開けていく。
 浅い抽斗には、色とりどりの模様が入った、紅猪口べにちょこらしきものが伏せてある。白粉が入っていそうな瀬戸の蓋もの。蒔絵で彩られた薄い箱には、何が入っているのだろう。
 お峰とて年頃の娘である。気づくと、店先に広げられた荷を、興味津々で覗きこんでいた。細工の施された櫛にこうがいなど、見ているだけで溜め息が出る。
「そら、見つかった。こいつだ」
 取り出したのは、何の変哲もない白い瀬戸の器だった。蓋を取ると、鶯色の練り薬が見える。ぷんと青臭い香りがした。
 手招いてお峰を縁台に座らせる。男は指先に練り薬をすくい取り、お峰の指に丹念に塗りこめた。
「しみるか」
「いいえ」
 男との距離が近い。言葉が囁きに聞こえ、耳朶には吐息の温かさを感じるほどだ。次第に鼓動が速くなり、お峰の頬は薄桃色に染まっていく。
 練り薬には何かの油が含まれているのか、男の指が絡みつき通り過ぎると、肌は艶やかに輝き始めた。まるで手妻のようだ。
 手の甲や指を撫でまわされる感触が心地よく、お峰はしばらく放心していたが、男の手当てがとっくに終わっているのに気づくと、大急ぎで手を引っこめた。
「ありがとうございます」
 礼をいう声が大きすぎたようで、お峰は再び頬に朱をのぼらせる。胸の内では、小さな太鼓が鳴り続けていた。うるさくてしょうがないのだが、その止め方もわからない。
「湯屋から帰ったら、こいつを塗るといい。ちっと青臭いが、効き目は保証するよ」
 練り薬の容器を娘の手に乗せると、鼻筋に皺を寄せて笑う。くしゃりと笑み崩れた表情が、妙に子どもっぽくて、お峰は親しみを感じた。
「あの、お代は……」
「半端な売れ残りだ。気にするな」
 男は縁台に甘酒の代金を置き、広げた小間物を店じまいする。荷を背負うと、お峰の顔をつくづくと眺めた。
「お前さん、名はなんという」
「お峰です」
「ふむ。ちょっと目をつむってみな」
 素直に目を閉じるお峰の前で、男はふところから紅猪口を取り出した。小指の先を茶碗に浸し、猪口の内側を撫でると、娘の唇にすいと紅をさす。
「そら、見てごらん。この色はお峰ちゃんに、よく似合う」
 差し出された手鏡には、紅梅の色に彩られ、いつもより大人びた顔が映っていた。
 やはり、この人は手妻師かもしれない。それとも、お狐さまかしら。
 お峰が顔をあげると、男はすでに歩き出していた。
 胸の小太鼓が激しく鳴っている。何かいわなくちゃ。そう思うのだが、喉が詰まったようになって言葉が出ない。
 木々を揺らす強い風も止んでいた。
「また来るよ」
 そう告げた男の名前すら、お峰はまだ知らなかった。

 ◆

 寒さが行きつ戻りつしながら、梅の蕾が膨らんだ。花がほころんで良い香りを漂わすようになると、参道には人の往来が増えた。
 仕事の手が空くと、お峰はついつい参道を眺め、見覚えのある濃鼠の風呂敷包みを背負った、男の姿を探してしまう。
 何のために探しているのか、彼女自身にもよくわかっていない。
 似合うといわれた、紅を買いたいがためのようでもあり、それだけでもない気がするのだ。
 他にも小間物屋が通ることはある。だが、お峰が出会いたいのは、手妻師のような、あの男だけだ。
 春風と共に男がやってきた日を思い返せば、とくんとくんと胸が鳴り出す。そのうるささにも慣れてしまい、あまり気にならなくなったけれど、日が経つにつれ、焦れるような想いが強くなった。

 男にいわれた通り、湯屋から戻ると必ず、もらった薬を塗った。草の葉を煎じたような独特の臭いも、馴染んでしまえば気にならない。何より男を思い出す、よすがになった。
 夜着にくるまり手に触れると、指を絡め練り薬を塗ってくれた、しなやかだが力強い手の温かさが蘇る。指先で唇に触れれば、男の小指がすっと撫でた感触を思い出す。
 そのまま眠りにつくと、お峰は小間物屋を夢に見た。
 ねぇ、見て。この手、ずいぶんきれいになったでしょう。
 問いかけると、男は微笑んで何か答えた。よく聞こえなくて、お峰は耳を澄ます。
 白く長い指が結髪に触れ、頬を撫でた。男は、また唇を動かす。
 聞こえないよ、小間物屋さん。何ていってるの。
 男の手に包まれている頬が熱い。のぼせているせいなのか、男の掌が熱いのか、判別がつかずに惑った。
 あつい、熱いよ。助けて、息が苦しいよ。
 耳まで火照り、こめかみが脈打つ。目の前にある男の顔が歪んだ。ゆらりと輪郭が崩れ、見る間に狐の顔になる。たまぎる悲鳴をあげそうになって、ようやく目が覚めた。
 夜着を引きかぶって寝ていたらしく、肌はしっとりと汗ばんでいる。
 夢で会うことができて、はたして良かったのだろうか。お峰は大きな溜め息をつき、静かに寝床を抜け出した。

 明け六つの鐘には間があるようだった。薄明の中、鳥居をくぐり石段を上る。勝手知ったる社の中を進んでいく。この場所で生まれ育ったお峰にとって、境内は自分の庭のようなものだ。本殿の前で手を合わせてから、神社のはずれへと向かう。
 朝まだきの肌寒い空気が、さっきまで火照っていた頬に沁みる。東の空の端が、少しずつ白み始めていた。
 男はまた来るといったが、今日なのか明日なのか。それとも数ヵ月後なのか。わからずに待っているから胸苦しいのだと、お峰は心の中で断じた。
 足が社殿の片隅で止まる。両腕で抱えられる大きさの無骨な石が、座布団の上に鎮座していた。村人が御石様と呼ぶ、願掛け石だ。願い事を唱えながら石を持ち上げて、軽ければ叶う。重ければ叶わない。
 気を落ち着けるために、すうと息を吸った。鼻孔に、かすかな梅の香が届く。

――お願いです。あのひとに会わせてください。たとえ、お狐さまの化身であってもかまいません。ただ、会いたいのです。

 唇の中で呟くと、軽く腰を落とし御石様を抱えあげる。お峰は「あ」と小さく声をあげた。石は思いのほか軽かった。
 瑞兆だと信じたい。持ち上げた石の分だけ気持ちを軽くして、梅の香がするほうへ歩みを進める。社殿の角を曲がると、途端に香りは濃くなった。
 神社裏手の細道を行けば、金輪寺の弥陀坊へと繋がっている。天からこぼれ落ちるように咲く、八重の枝垂れ梅が見えた。芳香はそこから漂っているようだ。
 視界の隅を何かがよぎった。梅の傍らにある井戸に、人影がある。男が一人、もろ肌脱ぎで手拭いを使っている。見かけない顔だ。新しい寺男かと、瞳を凝らす。
「おはよう。……おや」
 人影がこちらを向き、喋った。
「茶店の娘さんだったね。たしか、お峰ちゃんだ」
 嘘だ。これはきっと、夢の続きだ。願い事が、こんなに早く叶うわけがない。
 夢かうつし世か、お峰は確かめるために男に近づく。足もとが覚束ない。下駄で踏んでいるのが、地面でなく別のものに変わったように、ふわりとする。
 もし夢なら、まだ覚めないで。
 枝垂れ梅の下に立つ。薄紅梅のすだれに隠れて、お峰は着物の上から、そっと太腿をつねった。ちゃんと痛みがある。
「こまものや……さん」
「そうさ。俺の名は時三郎だ」
 着物を整えると、あの笑顔で、男はくしゃりと笑う。
 胸の奥から、突き上げてくるものがあった。総身を走り回って膨れると、体から溢れていく。悲しいときだけでなく、嬉しくてたまらないときも、涙は出るのだと知る。
「どうした。どこか具合でも悪いのかい」
「いいえ、いいえ……」
 しゃくりあげながら、お峰はただ首を振るしかない。後から後から、涙が湧いてくる。あんなにも会いたかった男の顔が、今はよく見えなかった。




     前(第一話 木枯らし)   次(第三話 化粧)