山茶花


第一話 木枯らし

 辰次が足を止めたのは、その娘の表情がひどく暗かったせいだ。
 立ち止まった拍子に首筋を木枯らしが撫で、慌てて綿入れの前をかき合わせた。掛け行灯に明かりがともり始め、軒を連ねた料理茶屋や水茶屋は賑わいを増してくる刻限である。茶とねずの縦縞に柿色の前垂れを掛けた娘は、年のころ十七八、近くの茶屋の小女のようで、こぎれいな面立ちをしていた。
 娘は、枝ばかりになった寂しげな柳の下で、どんよりした池の水面を見つめて動かない。かげりを帯び、思い詰めた様子なのが、辰次には気がかりだ。
「お峰っ、なに油売ってんだい。忙しいんだから、ぼんやりするんじゃないよ」
 茶屋の一軒からけんのある声が響く。お峰と呼ばれた娘は、悪戯を見つかった子供のように首をすくめた。
「すいません。今すぐ」
 小走りに駆け出そうとして、こちらを見つめている辰次と目が合った。一瞬驚いたように目を見張ったあと、辰次を岡引おかっぴきと見定めてか、丁寧に頭を下げると、店の裏口へと回った。
 辰次は、しばし腕組みして記憶を手繰り寄せる。
 お峰が入っていったのは、最近代がわりしておつな酒肴を出すようになったと評判の、料理茶屋である。味噌仕立ての猪鍋を、風味のいい粉山椒を振って供すという。辰次の懐具合ではそうそう立ち寄れない店であるから、味わう機会もないが、それでも噂話を思い出すだけで腹の虫が鳴った。
 元より、気がかりなことは、見届けずにおれない性分なのだ。加えてこの寒空である。軽く肩をいからせると、辰次は『相模や』と染め抜かれた暖簾をくぐった。
 明るく弾けた「いらっしゃいまし」の声と、低く遠慮がちな辰次の声とが交錯する。
「忙しいとこ、すまんな。邪魔するよ」
「あら……親分さん、お役目ご苦労様でございます。今日は、ご用の筋でございますか」
 顔に貼り付けた笑顔は同じだが、辰次の顔を見分けた途端、声の調子は幾分か冷ややかになった。
 吊り目がちの狐に似た雰囲気の女で、微笑むと口元に愛嬌がある。年の頃、風体から見て、腰を痛め隠居した『相模や』先代に代わって采配を振るっている、おせんという後添いの女だろうと、辰次は当たりをつけた。
 おせんはさりげなく身を寄せ、辰次の手に僅かばかりの金子きんすを握らせる。書き入れ時だから、これで大人しくお帰りくださいと、いわんばかりだ。
 そんなあしらいには慣れっこなので、素知らぬ顔して金子をたもとに滑り込ませると、
「こう寒くっちゃあ、ねぐらまで真っ直ぐたどりつけねぇ。熱いのを一本つけてくれねぇか」
 伝法な口調でいい、どんぐり眼でおせんの顔をじっと見た。
「辰さんは、伏し目がちにしてれば、それなり男前なのにねぇ」と、辰次がねぐらにしている長屋の内儀さん達が陰口を叩く、特徴ある眼だ。目を見開くと、ぐりっとした大きな瞳が子どものようにきらめいて、邪気のない顔になる。知らず知らずのうちに、人の気を緩ませるのだ。
 おせんは辰次を、帳場の奥に案内すると、膳を運んでいた娘に、
「大急ぎで熱いのを一本、こっちにも持ってきておくれよ」
 と命じた。
 『相模や』は入れ込み座敷の他に、幾つもの離れがあり、忍ぶ仲の逢引にも重宝されているという噂である。おそらくは離れへ膳を運ぶであろう、先ほどお峰と呼ばれていた娘を見送って、
「可愛い娘が入ったねぇ。もちっときれいななりをさせたら、看板娘になるんじゃねぇのかい」
 火鉢にあたりながら、辰次はおせんにいう。
「あたしもそう思うんですけどねぇ」
 そう答えるおせんの顔は、何やら苦虫を噛み潰した風だ。
「実家で臥せってる父親のためにも、もっと稼げる手だてはあるんだよって、いって聞かせてるんですがね。当の本人にその気がなくって」
 もっと稼げるとは、場合によっては色も売るという意味だと、辰次は察した。『相模や』に限らず幾つかの店では、客の望みと銭次第で、商売をする女たちもいるという。もちろん、大っぴらな商いではない。そのうちの幾ばくかは、女将であるおせんの懐にも入るのだろう。辰次は適当な相槌を打ちながら、細身のわりに脂の乗った、おせんの首筋を眺めた。
 酒を運んできた、お峰の後ろから、「女将さん、藤の間にご挨拶を願います」と声がかかる。おせんの店は、なかなか繁盛しているようである。
「すまねぇな。名はなんていうんだい」
 おせんが中座した奥の間で、酌を受けながら辰次は訊ねた。
「お峰と、申します」
 辰次が杯を干すと、お峰は今にも笑い出しそうに、口元に手を当てている。先ほど池の傍で見た表情とは打って変わって、年相応の愛らしさがあった。
「どうした。俺の顔になんか付いてるか」
「親分さんとは、ずっと以前にお目にかかったことがあります」
 辰次のどんぐり眼を、ますます大きくさせるようなことをいった。
 お峰の生家は、王子稲荷参道の茶店だという。探索の折に辰次が立ち寄ったのが五年ほど前だと、お峰は遠い目をした。辰次がちょうど、茂蔵親分の下で働き始めた時分である。
「たった一度立ち寄っただけなのに、よく覚えていたなぁ」
 つきだしの、よく味の染みた蒟蒻こんにゃくを口に放りこんで、辰次が呟くと、
「親の手伝いをして偉いねぇと、ほめてくださいました」
 お峰も懐かしそうに微笑む。笑うと細められる目元や花がほころんだような唇に、陽だまりで甘酒を啜った日を思い出した。
「おお、あん時の」
 ぽんと膝を打つ。
 参道を歩けばほのかに梅が香る季節で、しゃちこばって茶を運ぶお峰と、それを心配そうに見守る茶店の親父の姿があった。格好をつけてお峰に声をかけたは良いが、後ろで茂蔵親分に「調子に乗るんじゃねぇ」と小突かれたのを、懐かしく思い出す。その茂蔵も、二年前に鬼籍に入っている。
「おとっつぁん、おっかさんは、どうしていなさる」
 訊ねた途端、お峰の表情が曇ったのを、辰次は見逃さなかった。
「おとっつぁんは病で臥せっております」
「そうか。お峰ちゃんも色々と大変だな」
 労るようにいっても、お峰の屈託した様子は晴れない。
 廊下が急に騒がしくなり、酔客に愛想をいうおせんの声が聞こえた。
 ふいに、お峰は縋るように辰次を見つめ、
「あの……私が此処に居ることは、家には内緒にしてください」
 深々と頭を下げた。
「内緒って、お峰ちゃん、そりゃあ……」
「どうか、どうかお願い致します」
 額を畳に擦りつけ、重ねて懇願する。
 辰次が弱り切っていると、酒の匂いをまとわりつかせて、おせんが戻ってきた。それを潮に、辰次は腰を上げた。
 暖簾の向こうは今にも風花がちらつきそうな按配あんばいで、外気の冷たさに首をすくめていると、見送りに出たおせんが耳元で囁いた。
「お峰にはね、悪い男がついてるんですよ」
 酒と博打に明け暮れ、女からうまい汁を吸って生きているような男と、おせんは吐き捨てるようにいった。時三郎というその男の名と、お峰と一緒に暮らしているねぐらの場所を聞き出して、すっかり日暮れた通りを歩き出す。
 辰次の脳裡には、梅の香に包まれた朗らかなお峰の姿と、池の傍で立ちつくすお峰とが、交互に浮かんだ。その二つが繋がるようで繋がらない。魚の小骨を呑んだような面持ちで、辰次は大きなくしゃみをした。

 ◆

 木枯らしの吹く夜はものを思うかな
 涙の露の菊襲きくがさね

 夜半、疲れきった身体を引きずって、お峰は家路を急いでいた。どこからか、風にのって小唄が聞こえてくる。
 客に勧められて飲んだ酒で、胃の腑のあたりが熱く、気分が悪くなるほどだ。なのに、手足はひどく凍えていた。お峰はあまり酒が好きではないが、時には飲むのも仕事のうちである。冷え切った指先を擦り合わせ、温めようと息を吹きかけてみる。
 俯いていると心まで暗くなる気がして、冴え冴えとした三日月を見上げた。
「お天道さまやお月さまは、良いことも悪いことも、みぃんな照らして見ていなさるよ」
 父母に、そう教えられて育った、お峰だった。
 時三郎の誘いに応じて、駆け落ち同然に出奔してからというもの、生まれ育った家を忘れたことはない。
 小さな裏庭で飼っている鶏たちに毎朝餌をやるのは、お峰の役目であった。卵を産んでいれば朝の膳に供され、おとっつぁんが啜る粥の真ん中に、ぽとりと黄身が落とされる。卵色した米粒を見つめていると、「お峰にもひと口やろうな」と、おとっつぁんは茶碗を差し出すのだ。それを微笑みながら眺めている、おっかさんの顔。けして裕福ではないが、優しさに包まれていた日々を思い出す。
 あの取り澄ました横顔みたいなお月さんは、父や母が眠っている部屋も、照らしていなさるだろうか。そう考えると、お峰は胸が締めつけられるような、遣る瀬ない気持ちになった。

 寝静まった棟割長屋の、あまり建てつけの良くない引き戸を、苦労してそっと開ける。時三郎はまだ帰っていない。寝床は、今朝お峰が出かけたときのままだ。
 火鉢の炭をおこし、凍えた指先を温める。人形ひとがたに脱ぎ捨てられた夜着よぎは、時三郎のかたちが、まだそこにあるように思われた。
「時さん」
 小さく呟いて、蒲団をそっと撫でる。
 今日、昔のお峰を知っている親分さんに、出会ってしまったよ。ねぇ、どうしよう。またどこかへ逃げないといけないのかな。
 いない男の匂いを嗅ぐように、お峰は結髪のまま身を伏せた。頬に触れる夜具は、しんと冷たくて、心まで寒々とする。
「重ぬる夜着も一人寝の……」
 小唄の続きをくちずさむと、涙がはらりと落ちた。




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