山茶花


第三話 化粧

 地鳴りのような読経が聞こえている。
 手習いに通っていた時分、いつもこの声と墨の香りに包まれていたのを、お峰は懐かしく思い出す。だが今ここに、お師匠さんはいない。
「じっとしてな」
「はい」
 時三郎の声に、お峰は大人しく答えた。それでも、つい身じろぎする。頬をすべる白粉刷毛がくすぐったいせいだ。
 金輪寺弥陀坊にある、寺男の宿坊の一つに、王子村に戻ってきてからの時三郎は滞在していた。宿坊といっても、寝起きができるだけの簡素な小屋である。
 刷毛の動きが止まり、時三郎は娘の顔を覗きこむ。
 言葉を交わすようになっても、心の底を見つめるような男の視線に、お峰はまだ慣れない。射すくめられて息が止まりそうになる。
「ちょいと髷をいじるよ」
「髪結いも、できるのですか」
「真似ごとだけさ」
 時三郎は立ち上がって後ろに回り、挿してある櫛を抜くと、手絡めの赤い布も解いた。
 子どもの頃は、おっかさんが髪を結ってくれたが、今では自分で結っている。男の手に髪を触れられるのは初めてで、ひどく気恥ずかしい。
 髪油の匂いがぷんとした。櫛がびんの毛をすき、髷を整える。真似ごとというには手際が良かった。
 時三郎の手が結髪から離れると、お峰は急に不安になった。うなじの辺りに、ちりちりと視線を感じるのだ。
「少し衣紋を抜くぞ」
 否をいう間もなく、後ろ襟が下に引かれる。うなじから背にかけて、ぽかりと開いた空洞が少し肌寒い。
 ああ、いま男に肌を見せている。
 そう思えば胸の鼓動が速くなる。時三郎に会うために来ているのに、その一挙手一投足に振り回される。落ち着かない気分に、お峰自身が呆れ果てていた。
「くすぐったいかもしれねぇが、我慢してくれよ」
 白粉刷毛がうなじをすべる。一筋、二筋。その度に、お峰の背を何かが這い上った。
 ぞくり。
 悪寒とも違う、この甘美なものは何だろうか。
「よし、仕上げだ」
 時三郎は前に回ると、紅猪口を取り出した。玉虫色の曲面を、お峰はうっとりと眺める。頬には朱がさし、瞳は酔ったように蕩けていた。
 お峰はいつかのように、指先で紅をさして欲しいと心のうちで願ったが、男は紅筆を手に取った。
 紅は水で溶くと、玉虫色から赤に変わる。紅をさした娘の顔も、少女からおんなへと変貌する。
「いっちょあがりだ。見てごらん」
 時三郎が手鏡を渡す。春まだ浅い日に、茶店で覗いた鏡と同じものだった。
「うちで鏡に映すより、きれいに見える」
「ぎやまんの自惚うぬぼれ鏡だからな」
 薄く白粉を塗り、紅をさした面は、まるで自分じゃないようだと、お峰は思った。華やいで頬を染めた娘が、鏡の中にいる。
「こいつは、朝飯を届けてくれた礼だ。お代は要らないよ」
 男はにこりと笑うと、娘の髷をつつく。お峰は、宿坊で寝起きするようになった時三郎に、不自由のないよう世話を焼いてくれるのだ。
 結綿ゆいわたの髪形はそのままに、髷はきれいに整えられ、赤い鹿の子絞りが飾られている。
 頭を下げて礼をいいながらも、お峰の心には何かがわだかまっていた。
 時三郎は小間物屋だ。必要があれば、他の娘にも化粧の手ほどきをする。遊里や町家で、女たちの顔を覗きこむ男の姿を想像して、お峰の気持ちは塞いだ。
「誰にでも、こんな風に化粧をしてあげるのですね」
 口に出してから、お峰はしまったと思った。なんとも悋気りんきに満ちた物言いではないか。
「ああ、それが俺の商いだ。厭ならもうここへは来るな」
「そんなつもりでいったんじゃ……」
 ここへ来られなくなったら、時三郎に会えなくなる。
 見る間に、お峰の目に涙が溜まった。
「泣くな。せっかくきれいに作ったのに、化粧が崩れちまう」
 男は指先で、こぼれ落ちる寸前の涙をすくう。
 お峰の気持ちには、とうに気づいている時三郎である。女相手の商売ゆえ、惚れさせて一人前、くらいに思っていた。家々を廻れば、時さん、時さんと、袖を引いて誘う女もいる。
 目の前にいるのは、十も年下の小娘だ。
「また、ここへ来てもいいよね」
 お峰は震える声で懇願した。時三郎を見上げる潤んだ瞳が、一途な想いに揺れている。
 堪えきれなくなった涙が一筋、流れた。
「ああっ、もう。泣くなっつってんだろ」
 時三郎は娘を抱き、頬を伝う雫に唇を寄せる。まだ温かな涙を吸い取った。抱き寄せた肩は、細く頼りない。
「悪かった。声を荒げて、すまない」
 お峰の瞳が、驚いたように瞬いた。
「ここへ来ていい。……いや、どうか、これからも来ておくれ」
 背を撫でながら、耳元で穏やかに囁くと、娘の表情が華やぐ。
 こくりと頷き、はにかみと喜びをないまぜにして微笑んだ。咲き初める花のような面差しに、男は思わず見とれた。
 たった今、紅をさし、時三郎が手ずから作り上げたところだ。
 おのれ好みの、おんなに。
「ときさぶろう、さん」
 沈黙に耐えきれず、お峰は声をかける。応えの代わりに、男は娘の唇を塞いだ。


 男の胸に顔を寄せると、とくんとくんと鼓動が聞こえる。小刻みな律動が心地良い。一緒に胸の太鼓を鳴らしているようで、お峰は嬉しかった。
「俺が、怖くないか」
「いいえ、ちっとも」
 男は確かめるように、娘の、瞳の奥を覗きこむ。
 お峰はすでに帯を解かれ、着物の前を肌蹴はだけている。洗柿あらいがき襦袢じゅばんのうちに、温かく柔らかな肢体が息づいていた。
 時三郎を、怖いとは思わない。だが、襦袢越しに触れる、火照った牡の塊に、少しだけ恐れを覚える。
 襦袢の襟を割って、男の指先が滑りこんだ。絶え間なく流れる読経の声を聞きながら、娘は目をつむる。
 男が指で辿った場所が熱い。頬も肩も、胸も臍も、全部だ。夢とおんなじだと、お峰は思った。
 ねやごとを知らぬ生娘の肌に、時三郎は少しずつおのれを刻む。
 まだ芯の固い、胸の膨らみを揉みほぐせば、娘は抗うように身をよじる。そのてっぺんは触れられると縮こまり、ひしゃげた豆のようになった。
 身をそらすたび、誘うように揺れる鴇色の豆粒に、男はむしゃぶりつく。体を走る甘美な痺れに、娘は小さく声をあげた。
「鳴いてもいい。でも大きな声は出すなよ」
 囁かれて、お峰は真っ赤になる。
 日暮れが近づき、いつしか読経は止んでいた。この静けさの中、あられもない声を上げたら、誰かが来てしまうのではないか。考えただけで恐ろしく、体を強張らせる。
 だが、男は手を止めず、襦袢の紐を解いた。湯文字ひとつに剥かれた娘は、恥じらい、両腕で我が身を抱く。
 日が翳り、薄暗くなった宿坊でも、まろみのある輪郭が見てとれた。時三郎は着物を脱ぎながら、それを目でなぶる。
「叫びたくなったら、こいつを噛むといい」
 脱いだ着物をお峰に渡し、男は覆いかぶさる。ひそやかに閉じた脚に、膝をこじ入れた。


 触れ合う肌が温かい。かすかに生じた迷いが、ぬくもりに溶かされていく。
 男の手が下草をまさぐっても、娘は怯まなかった。
 開かれ摘まれ弄られて、甘い痺れが走る。熱い滴が滲みだすと、それはやがて疼きになった。
 今まで感じたことのない、得体の知れないむず痒さが何なのか、お峰にはまだわからない。次第に大きくなる未知のうねりに、男の着物を唇にくわえ、耐えた。
「お峰」
「はい」
 男はもう、お峰ちゃんとは呼ばない。茶店の娘でなく、一人前のおんなとして見てくれている。互いの隔てが消えたように思えた瞬間だった。
 時三郎の手が、娘の小さな手を導き、猛りたつものに触れさせる。
 熱く、生き物のように脈打つそれが、おのが体に納まるとは到底思えない。ごくりと唾を呑みこみ、お峰は男を見返す。男の瞳には、いまだ見たことがない昂りが揺らめいて、娘の心をざわつかせた。
 すうと小さく息を吐く。
 そうだ。ここから戻る道はない。
「時さん」
 腕を伸ばし、愛しい男の首を、掻き抱いた。
 その仕草に、時三郎の雄が猛る。
「これで、夫婦めおとだ」
 男は引導を渡すようにいうと、湿り気を帯びた狭間にあてがい、押し開く。
 体が軋み、悲鳴をあげている。たまらず叫びを上げそうになるのを、着物の袖をきつく噛んで堪える。
 暮れ六つの鐘が鳴った。尾を引く鐘声の中、お峰は男を迎えいれた。
 娘が涙を流していたのは、引き攣る痛みのせいではなかった。好いた男と、ひとつになれたのが、ただ嬉しかった。

 ◆

 この日を境に、お峰は、時三郎の元へ頻繁に訪れるようになった。
 茶店のお峰ちゃんは、金輪寺に住みついた小間物屋に、すっかりのぼせちまってるらしいよ。あの色男かい、羨ましいねぇ。
 そんな噂が、村人たちの口の端に上り始める。噂話は、やがて娘の変化を不審に思っている、ふた親にも届く。

 ある晩、お峰は、両親が話し合う声で目覚めた。
「あの男には、早々に村を出て行ってもらうよう、金輪寺のご住職に話をしてきたよ」
「そんなこといったって……あんた。お峰が可哀想ですよ」
「なぁに、しばらくすれば忘れるさ。それより良い相手を探さないとなぁ」
 ひどい。
 すーっと全身の血が冷えた。
 おとっつぁん、おっかさんは、時三郎と自分を引き離そうとしている。
 お峰は、夜着を引っかぶったまま、身を固くして聞いていた。

 夜半、皆が寝静まったのを見計らい、娘はむくりと起き上がる。身支度を整えると、そっと家を抜け出した。
 参道には桜が咲き初めている。花冷えの空気も、星の見えない黒々とした夜の帳も意に介さず、好いた男の元へと急ぐ。
「時さん、起きて。ねえ、開けて」
 宿坊の戸を叩く。
 寝入っているとばかり思っていたのに、男は意外に早く戸を開けた。
「……入んな」
 時三郎は、少しばかり憔悴しているように見えた。
 中に入ったお峰は、変化に気づく。宿坊の内部は片付き、蒲団も敷かれていない。商売道具の四角い荷は、きっちりと風呂敷に包まれ、背負われるばかりになっていた。
「黙って行こうと思っていたんだが……会えて良かったよ」
 呆れるほど穏やかに笑う男の、着物の袖を掴んだ。
「……嘘だ。時さん、夫婦っていってくれたじゃないか。ねえ、嘘だよね」
「これから俺は、江戸表へ行く。小さくてもいいから、店を一軒持ちたいんだ。いつまでも旅暮らしじゃ、おめぇと一緒になれねえだろ」
 上がり框に腰かけると、時三郎は草鞋を手に取った。
「必ず迎えに来る。だから待ってろ」
「駄目だよ」
 娘は激しく頭を振る。
「おとっつぁんは、時さんを追い出して、他の男と添わせるつもりなんだ」
 草鞋を履く手が止まる。男の面に、苦しげな表情がよぎった。
 紅梅の下で再び出会い、結ばれた。桜が咲くまでの合間に、何度も体を重ねあわせた。肌を馴染ませた娘が、悦びの声を上げるようになったのは、ついこの間だ。
 せわしなく喘ぐ愛らしい声も、立ちのぼるおんなの匂いも、男はよく覚えている。
 すがりつく娘の背を、時三郎は静かに撫でた。
「連れてって」
 ぽつりと、お峰が呟く。驚く男を、気力に満ちた表情で見返した。
「苦労させるかもしれねぇぞ」
「かまわない」
「おとっつぁん、おっかさんを裏切ることになるんだ。それでもいいのか」
 ほんの少しだけ、娘の顔に暗い翳がさしたが、それを振り払うように真顔になった。
「時さんと離れ離れになっちまったら、生きてる意味がないよ」


 夜明けまで一刻ほど間がある頃、寄り添う二人の影が、参道を行き過ぎる。男は荷を背負い草鞋姿、娘は下駄のままだ。
 茶店の前を通るとき、娘は一度だけ立ち止まった。
 きっと天を仰いで、再び歩き出す。
 五分咲きの桜が、風でゆらゆらと枝を揺らす。雲は晴れ、煎餅を半分こしたような月が見えた。




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