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 苦痛



 その日の私は、少しコンディションが悪かった。なんとなくだるくて、肌を合わせる気がしない。そんな日もある。でもそういう時に限って、男はいつも仕掛けてくる。
「今日はイヤだよ。したくないの」
「ふぅん、そうなんだ」
 言いながら、横になっている私の傍にするっと近づく。男の態度はその言葉とは裏腹だ。
「疲れてるの。このまま眠ってしまうかも……」
 伸ばされた手を邪険にふりはらうようにして、ゆっくりと目を瞑った。
「いいよ。寝てしまっても」
 耳朶から顎、そして首筋、肩先へと男の手の平が包み込むようにたどっていく。肩から二の腕へと、着衣越しにじんわりと体温が伝わる。あたたかい。さっきまでの刺々しい気分が、ちょっとずつ溶けていくようだ。セックスなどしなくても、触れあっているだけでこんなにも気持ちよくなれる。
 いちど離れた手は、今度は膝の外側から太腿の外側にかけて、手の平がひたりと吸いつくように、そっと撫ぜるように少しずつ上っていく。腰のふくらみ、ウエストのくびれ、そして脇腹にまでたどりついた時、思わず小さな溜息を洩らした。
「ほぅ……」
 しまったと、気づいた時はもう遅い。胸の少し手前で止まっている手の平。いつの間にかそこから先を期待して体のどこかがモヤモヤと疼き、そして小さく失望している。
 そんな気持ちを、すべて見抜かれてしまっている。
「しないんだったよね?」
 男は確認するように、耳元で小さく囁く。首筋に吹きかけられた吐息で、ぴくりと感じてしまうのを、必死で気づかれまいとして思わず横を向く。
「そうよ……んっ……」
 止まった手が再び動きだした、胸の丘陵を下からのぼってくる。頂上の手前で一旦とまり、脇の下あたりから、そして胸の谷間から。胸の裾野のあちこちから、マッサージをされるように、撫でられる。手が胸の頂点に達する期待感に、肩先がこわばった一瞬を見逃さず、指の付け根のくぼみが、着衣ごしに乳首の尖りを的確にとらえ、軽く引っ掛けるように弾きながら、男の手の平が丘陵の頂を乗り越えていった。
 びくん。今度は声を洩らさないことに成功した。それでも、体全体をゆっくり撫でさすられた事で少しずつ熱く昂ぶって、最後の乳首へのひと刺激だけで、足がゆるりと蠢き、背が小さく反りあがった。
 それを見て男は手をとめずに、畳み掛けるように上下に乳首を擦って弾き続ける。
くっ……。唇を小さく噛んで堪える。じわりと足の間に熱く溢れる感触がある。
『今日のコイツはちょっと強情だ』男はそう思っているに違いない。

 被虐の気持ち、支配されたい気持ちは、いつも持っている。感じてしまえばすぐにでも、されるがままになってしまいたい。スイッチは、感じればいつでも入ってしまうから。でもそれでは、単純すぎてつまらない。セックスも音楽のセッションと同じ。響きあってより感じられるものだ。ほんのささやかな抵抗、それを押しのけて圧倒的に支配する力。そして屈服。そんなものを今の私は望んでいるのだから。
 その気持ちを知ってか知らずか、男は愛撫の手をとめると、私の胸に顔を近づけた。
「くっ……!」
 衝撃で体が大きく弾んだ。与えられたのは快感ではなく痛みだった。男は私の服の上から、乳首を口に含み、そして軽歯でぎりりと噛んだのだ。それまで快感にたゆたっていた私は、驚きと怒りの両方で、自分の真上に体を入れ替えた男の顔をあらためて睨みつける。無言のうちに視線が絡みあった。
 男は私の両脇に両手をついて見下ろしながら、私の苦悶と苦痛の表情を見逃すまいと
する。その表情は、普段の穏やかな雰囲気と微妙に違っている。私が快感や苦痛で被虐のスイッチが入ってしまうように、この男もまた私の抵抗や苦痛の表情で、スイッチが入ってしまうのだろうか。
 睨みかえす私の視線から目を離さずに、そのままもう1度シャツの上に口をつける。着ているシャツの胸元は、男の唾液ですでに色が濃く変わっていた。
 再びぎりり、と乳首に痛みが与えられる。さっきよりもう少し強く噛まれる。痛みから逃れようと体が少し暴れた。それでも痛覚がゆるやかに痺れに近くなっていくのを、私は感じていた。
「痛いってば、やめて!」
 次の瞬間、反射的に私は男の両手で押さえつけられた。両手は左右に広げられて、握力の強い男の両手で掴まれている。足の間には、男の片足が入り、大きく広げさせられる。大の字で何かの標本のように、布団の上に留めつけられている。
 服のままで大きく広げられた足。見えないはずなのに、秘部を視姦されているような、濡れた部分を見透かされているような、そんな不思議な感覚がある。
 呑まれている。蛇に魅入られた蛙のように、男の視線が着衣の私を裸にする。

 きつく握りしめられた手首からは、じわりと快感に近い痺れが伝わってくる。このまま蕩けて堕ちていってしまいそうだ。それでもささやかな抵抗を試みる。もっと貪欲な被虐の気持ちのために。少しだけ動く手首から先を、抗うように動かしてみる。その途端に、手首にかけられた圧力がもっと強まる。抗うこともできないほどに。
「離して。ほんとに痛いの」
「いや、離さない」
 血流が止まってしまいそうな手首への強い圧迫、じんじんする痛みと痺れ。舌なめずりをするような、男の強い視線に晒されながら、私の苦悶の表情は、やがて陶酔に満ちたものへと変わっていく。
「く……くぅっ……はぁ……」
 今の私は、男の愛撫を受け入れている訳でもない。ただ、強い力で抑えつけられているだけだ。なのになぜ、感じてしまっているんだろう。荒くなっていく自分の息遣いのなかで、小さな疑問が湧く。でもその理由も、すでに考えられない。
 私はここで、すべてを男に委ねて屈服する。何もかも放棄して解放して、心地よさだけに浸るために。
 離して、許して、お願い。心のどこかで、そう叫んでる。でも言葉にならない。
抵抗する気持ち、受け入れる気持ち、両方がせめぎあいぶつかりあって、陥落する。 男の唇が、再び胸元に近づいた。
「……ふ……くはっ……ああっ!!」
 もう一度つよめに乳首が噛まれる。そして噛んだまま、少しの間じっとしている。苦痛の時間がひきのばされる。ほんの少しの身じろぎ、それに合わせてくいっと手首にかかる力が強まる。胸と手首、両方の痛みで頭の芯が痺れたようになって、つきぬけてそれから白くなった。

 ふと気がつくと、手首の力は緩められ、乳首への痛烈な刺激は終わっていた。肩を揺らして息をつきながら、私はたったいまイってしっていたのだと、やっと気がついた。脱力したようになっている、私に向かって頭上から男が呟いた。
「お前はほんとにマゾヒストだな」
 背筋がぞくりとする。自覚はしていても、慣れることのない言葉。でもたしかに私はマゾヒストだ。でもそれなら、この男はどうなんだろう。自分からサディストであると、告白した事はない。最初に縛ってくれと言ったのは、私だ。男はいつも私に合わせてくれていると、ずっと思っていた。
「続きは、また明日」
 そう言って、立ち上がろうとする男の首筋に、私はそっと両手を伸ばした。縋りつくようにして、こちらから唇をあわせる。男は一瞬とまどったような顔をして、それから深く唇をむさぼった。互いに唾液を絡めあい、舌で探りあう。男の口腔に侵入して、絡まりあった私の舌が、急に強い力で吸いとられる。引っ張られ、舌の付け根がじんとする。綱引きに負けたような思いで、糸をひく唾液とともに私は唇を離した。
「いたい。舌が抜けちゃうよ……」
 もう1度力を失って、私は呟いた。嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれるんだったよね。じんじんする舌の痛みと一緒、そんなつまらない空想が、頭の中に湧いてくる。ふふっと小さく笑いながら、体を離して男は立ち上がった。
 私はこの男と交わるたびに、またひとつ衣を脱ぎ捨てるのだろう。たとえそれが独りよがりの錯覚だったとしても、今はそれで良いのだと思う。男に微笑みかけながら、私はゆっくりと目を瞑る。



Back  Next [苦痛2] に続く




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