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 い・た・ず・ら



――  4 ――



 『次なる機会』は意外と早くやってきた。二日後の朝―――
 慌てて乗った電車内に見つけた、先日の痴漢のおじさんの顔……同じ時刻の下り電車だから偶然なのだろうと、その時は思っていた。
 立っている場所も離れているので安心していた。今日当てられるかもしれない英文法などを頭の中で暗誦しているうちに、痴漢の存在などすっかり忘れてしまった。

 ひとつめの停車駅、人の群れが入れ替わる。押し合いへし合いしながら、自分の場所を確保する。発車して車内を見渡すと、ギョッとするほど近くにその顔があった。
 今日は体が密着している訳じゃない……お、落ち着け、あたし。
 ガタタン、ガタタン、タン。
 発している体温が感じられるほど近くに立っている。一昨日の不快感が蘇ってザワッと鳥肌がたった。あたしの体と90度の角度で、口を真一文字に引き結んで正面を睨みつけている。目をあわす事はないのに、視界のどこかから、じりじりとねめつける様に見つめられている気がする。
 気のせいだ。気のせい……考えすぎだよ、きっと。
 そう思ってふっと気を緩めた瞬間だった。
 ふわり。
 制服のお尻のあたりに感じた違和感。何か触れたのだろうか。
 振り返る。何もない。気のせい……か。
 ガタタンと電車の揺れ。またふわり。キッと振り向く。
 たまたまそこにあるだけです、と言ってるみたいにさりげなく、お尻の下のほうに無骨な手があった。手の持ち主をたどる。
 痴漢のおじさんと目があった。食い入るような視線が、こちらをジッと見つめていた。
 ゴクン。生唾を呑みこんだ。
 やっぱりこのひとだ。あたしが、どんな反応をするか、試してる……おもしろがってるんだ。
 『意思表示しないと……』友達の言葉が頭の中をよぎった。だが今の状況は微妙だ。
痴漢……かもしれないおじさんは、軽く拳をつくって自然に手を下ろしているだけ。その手がときどき、あたしのお尻に当たってしまうだけ。
 周りを見渡した。眠そうに電車の揺れに身を任しているサラリーマン、音楽を聞きながら軽く頭をゆらしている若い学生風のひと。静かな車内で大きな声をあげるのは、すこし躊躇われた。おまけに痴漢でなかったら……。
 ときおり手がぶつかるだけだったら我慢しよう。
 悩んだ末にそう決めたとき、電車が大きく揺れた。

 キイイッ、ガタン。
 押されて体がねじれ、思わず高い位置にあったつり革を掴む。
 たぶん、痴漢はこの瞬間を待っていたのだ。ずっと。
「停止信号です。しばらくお待ちください」
 短い車内アナウンス。密着しあう人波。いちど離れた痴漢の手の感触が、お尻のあたりにさっきより強く感じられた。
 動けない。無理な姿勢で、焦れるような数十秒間を耐える。
 その間にお尻のあたりにあった手が、そっと動いた。おずおずと尻のまろみを包む。不思議なことに、その感触はけして嫌なものではなかった。
 例のおじさんに視線を走らす。さっきとはうって変わって、そ知らぬ顔をしていた。
 不愉快な人物と、不快ではない感触。そのギャップに一瞬とまどいを覚える。身動きとれない状況下で、手の持ち主が誰なのか、近くに立っているこのおじさんなのかどうか、特定できない。
 他に痴漢がいるのだろうか。考え出すと、まわりに立っているひと全てにその可能性があるように思えてくる。狼の群れに投げこまれた、一匹の羊のような心細さ。
 周囲から手が何本も伸びてきて、制服のスカートに纏わりついてくる妄想が、頭をよぎった。あわててそれを振り払う。

 ガタン……電車がふたたび動き出した。周囲の密着度はいぜん変わらない。あたしに触れているのは、誰だろう。見えないけれど、息を潜めるようにおずおずと触れている手の持ち主に、同情にも似た気持ちを持ってしまう。中学生のあたしに、成熟しているとはいい難いお尻に、控えめに手を動かさず触れているだけのひと。
 なんだか かわいそう。これぐらいだったらいいやと、僅かに気を許した時だった。
 あ、指が動いてる!
 制服の上からお尻を包んでいるだけだった手が、ゆっくりと動き出した。
 そっとお尻を撫でるように動く指。嫌な感じじゃない、けど……すごく近くに感じる。
 そうか。スカートのボックスひだの陰に、指が潜ってるんだ。優しく繊細に触れる指の動きを、電車の揺れに身を任せながら、あたしは味わってしまう。
 だって……気持ちいい……気持ちいいんだもの。変だな、あたし。いま痴漢にお尻を触られてるのに……。
 じれったいほどゆっくりすぎる指の動きが、あたしの中の何かを変えていく。
 もっと強く触ってもいいよ、ううん……

 モット タクサン サワッテ ホシイノ

 泡のようにぽわんと、この状況にあるまじきヘンテコな気持ちが生まれた。
 な、なに考えてるんだ、あたし。これは痴漢! 痴漢のはずなのに……。大丈夫よ、誰にも気づかれないし……気持ち、いいんだから……。
 天使と悪魔みたいな囁きが、頭の中で交錯する。じわじわとちょっとずつしか動かない、スカートの上の指の動きに焦れていく。
 ガタタン、ガタタン、タン。電車の音に心の中の不協和音をのせて、あたしは少しずつ動く痴漢の指を待っている。
 違うよ……もっと、もっと触って。大丈夫だよ、誰にもわからない……から、あたし平気だから、さわって……おねがい。
 もしかしたらこの痴漢は、とても引っ込み思案なひとかしら。そっと僅かに動く指は相変わらずおずおずとしていて、あたしの心に応えてくれないのだ。
 誰にもわからない。誰にもないしょ。
 小さな電車の箱の中で、痴漢とあたしだけの秘密が生まれようとしていた。どちらの囁きに負けたのか、あたしは少しだけ後ろにお尻を突き出した。

 もっと さわって いいよ

 聞こえただろうか、あたしの心の声が。伝わっただろうか、あたしの気持ちが。
 おずおずとした手の持ち主は、驚いたように指を止める。
 違うの。そうじゃなくって。
 ぽわん。小さな泡がまた生まれた。密着したひといきれの中で、もう一度だけ、ほんの少しお尻を突き出す。

 さわって、もっと。あたしを気持ちよくして。

 ゆっくりと、それでもやっぱり物足りないくらいそっと、指が触れてきた。よかった。通じたんだ。指は前よりちょっとだけ、大きく動くようになっていた。
 そう、それでいいの。気持ちいい。
 電車の刻むリズムに合わせて、あたしは目を閉じてうっとりとその感触を楽しむ。触れられている部分に、痴漢の指先から熱がうつったかのような暖かさを感じる。
 さわ。
 何かが動いたように感じて、あたしは眉をひそめる。痴漢の指の動きを追って、なにが起きたか、皮膚感覚だけで感じ取ろうとする。
 スカートがめくられて、いるの?
 ほんの少しだけれど、スカートの裾が持ち上がっているようだった。裾先がじわじわと太腿の後ろを這い上っていく。
 ま……まずいよ、それは。困る。やめて。
 窮屈な姿勢で、あたしはそれを痴漢に伝えるすべを持たない。さっきあんな馬鹿な行動を取ったからだ。だからこんな目にあうんだ。
 後悔しても遅い。まだ指はスカートの中に侵入していないけれど、やがてそれも時間の問題のように思えた。喉にひっかかった「やめて」の声が、いつまでも出せなかった。自分のほうからお尻を痴漢の手に押しつけてしまった現実が、あたしを縛っていた。
 たしか、次の停車駅まであとちょっとのはず。痴漢の指がスカートの中に届くのが早いか、次の駅に着くのが早いか。祈るような気持ちで、人波の先にある車窓を眺める。
 早く走って! おねがい。
 そろそろとスカートが持ち上がる。たくし上げられた太腿に、素肌に指が触れた……と思ったとき、車内アナウンスが響いた。
「次は…………です。お出口かわりまして左側です」

 箱にみっしり詰まった人間たちが動き始める。新聞をたたむ音、衣擦れの音。
 そして体の周囲に少しの隙間があく。自由になった右手で、痴漢の手を払いのけた。慌ててひっこめられる手。首をひねって、その手が戻っていく先をあたしは見逃さなかった。
 まじまじと見つめる。さっきまでのあたしは、なんて考えなしだったんだろう。このひとに触れられていたとわかったら、ぞわぞわと虫酸が走った。
 痴漢が、数日前あたしに固い棒を押しつけたおじさんが、ちらりとあたしを一瞥した。さっきまで触れていたお尻を想像しているような、あたしを頭の中で裸にしているような、満足げな視線だった。
 ドアが開く。波のように動くひとの群れ。
 離れよう。早くこの痴漢から逃げなきゃ!
 車両の奥の空いた場所を目指して、あたしも動き出した。一歩前に踏み出したとたん、体が動かなくて戸惑った。お腹のあたりに何かがつかえている。
 障害物を見下ろして、あたしは心底おびえた。痴漢のおじさんが、がっしりした腕を伸ばして、あたしの体を抱えていた。
 いくなよ、一緒にまだまだ楽しもう。あたしを見据えたどんぐり眼は、そう言っていた。それともせっかく捕まえた獲物を逃すものかと、考えているのだろうか。
 何かを考えるより先に、あたしの体は動いた。乗降客の波がおさまった後では、痴漢の手から逃れる術はなさそうだった。猶予はなかった。
 抱えていた学生鞄で、力まかせに痴漢の腕をはたき落とすと、車両の奥に向かって人波に紛れ突進していく。

 痴漢から離れても、あたしの動悸はおさまらなかった。指先が白くなるほど鞄を握りしめ、降車駅が近づくのを待った。
 きっと、きっとあたしはあの痴漢に目を付けられたんだ。逃れられない深みに、自分から足を踏み入れてしまったような気がしていた。

 電車を降りて、ホームからバスターミナルまで、構内をやみくもに疾走した。何人かに突き当たったが、謝ろうとも思わなかった。
 痴漢が、あのおじさんが怖かった。電車に乗るのが怖かった。駅からできるだけ離れていたいと思った。明日の朝が来るのが怖かった。

 そして何より、痴漢の指を求めて動いてしまった体が、感じて気持ちいいと思ってしまったあたしの心の動きが、たまらなく怖かった。



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