い・た・ず・ら ―― 3 ―― あくる朝、護はいつもどおりの物静かな様子だったので、昨夜おこった出来事はあたしの頭の中だけの錯覚だったのかと、勘違いしそうになった。 護もふくめて皆でもそもそと朝食をとり、毎年の春休みがそうであるように、 「叔母さん、お世話になりました。じゃあ お姉ちゃん、またね」 いつもの言葉をおいて、昼近くに護は自宅に帰っていった。 だが、護たちと川の字になってお泊まり会をする事は、この年の春を境に終わりになった。お互いが少しずつ子供ではなくなってしまったからなのか、それとも忙しくなっただけなのか、あたしには判別つかないのだけれど。 春休みが終わって三年になり、あたしの環境はちょっと変化した。父の都合でやむをえず、近隣の都市に引越しをすることになったのだ。あと1年間の学校生活、親しい友人たちと離れるのは悲しい。転校することに、頑としてあたしは抵抗した。 その結果、朝は今までより一時間以上はやく起きること、約二十分間のラッシュに耐えることを余儀なくされた。転校せず電車通学を選択したのだ。 予想していたとはいえ、実際の朝のラッシュは殺人的だった。大勢のひとの体臭、整髪料や強烈な香水の匂い、ときおり頭上で吐かれるちょっぴり酒くさかったり煙草くさかったりする口臭。雨の日の不快な傘のしずく。学生鞄と体とは別々の方向に押しやられ、爪先だちはもちろんのこと、背を捻じ曲げた不自然な体勢でじっと我慢していなければならない。最寄り駅に着く頃には、あたしは大抵へとへとになっていた。 そして今日も朝から、混んだ電車に揺られている。緩やかなカーブにさしかかるたび、前へ後ろへと体は人波に押されるように移動する。 あと二駅……もうちょっとの我慢……念じるようにあたしは目を瞑っていた。 ガクンッ。車内が大きく揺れる。人波に押され、周囲の人との密着度が増す。 ぐりっ。 太腿の付け根あたり、制服のスカートの上に妙な違和感が走った。固い棒を当てられたような感触。こんな晴れた日に、傘を持って乗っているのはどんな奴だろう。狭い場所で体をねじって、向きを変える。 もう一度、ぐりっ。咎めるような視線で、傘の持ち主を探す。 目の前に立っていたのは、中学生のあたしよりやや背の低い、がっちりとした体躯のおじさんだった。腕組みをしてこちらを見返している。 腕組み……手には何も持ってないの? 傘は……あたしとおじさんの体の間にあるのは何? ぐりぐりぐりっ。擦りつけられる。 こちらを見据え鼻息あらく擦りつけている部分を見て、あたしは固い棒が何だっだのか、遅まきながらやっと理解した。 う……っそ……き、きもちわるいっ! 愕然として息を呑んだ。固い棒はおじさんのズボンの中にあっても、こすりつけられる度に強烈な自己主張をした。身動きできない電車内で、刺激を求めるように、それは意識的に押し付けられていた。 いや。気持ち悪い。いやいや嫌っ! いやだぁっ!! 男性器がそのような変化を遂げる事を、知らなかったわけではないけれど、目の当たりにするのは初めてだった。あらわになったあたしの嫌悪感や不快感を喜んで、固い部分は上下に、左右にと、電車の揺れにあわせ自在に擦られる。 次の停車駅まであと十分近く。耐えられるだろうか。体の向きを少しだけずらす。 ふんっ、ふんっ。腕組みして平静を装うおじさんから聞こえてくる鼻息。 ぐりっ、ぐりっ……ぐりりっ。 横向きになったために、おじさんの両足はかえって、あたしの片足を挟みこむ格好になっていた。 や、やめて。いやだ。いやぁ……。 もぞもぞと身をよじるあたしの動きは、相手を喜ばすことにしかならないようだ。衣服越しの接触で、体を少しずつ汚されているような不愉快な気分になってくる。 耐えられない。気持ち悪い。何とかしなくちゃ。 ラッシュ初体験、痴漢初体験のあたしには、大声をあげるとか、痴漢を告発するとかの思考回路は、残念なことにそのとき全く働かなかった。他の乗客の隙間に入りこんだ学生鞄を、周囲に睨みつけられながら無理やりに引っ張りだすと、固い棒とあたしの体の隙間に、同じく無理やりに押しこんだ。 ほうっ……。 声が出そうなほど大きな溜息をひとつ、ついた。 間にワンクッションあるだけで、隣りに立っている男性が勃起しているという状況になんら変わりはないけれど、汚されている不快感からは開放された。触れているだけで今にも妊娠してしまいそうな、気分の悪さがあったからだ。 タン、タタン、ガタタン、ガタン。次の停車駅が近づいていた。 「それってさ、危なくない?」 「なにが?」 「だからさ、ああーもうっ! こういう時のんびりかましてたらダメなんだってば! あんた痴漢にあったんだよ?! 状況を理解してます? 直子さん?」 昼休み、いつものように校庭を眺めながら、今朝の最悪の事件を友達に説明していた。あの後、乗降客の波に押されて、あたしは車内の奥へと移動した。痴漢のおじさんも近寄ってきたけど、さすがに密着する体勢には至らなかった。 「うん、そうだよね。痴漢だ」 「やめてくださいって声を出そうとか、思わなかった?」 「…………思い、つかなかった」 「頼むよ、直子ってば。あったま痛いな。黙ってもじもじしてると、そういう奴らはつけあがるんだから。大声あげるとか、足踏むとか、抓るとか、意思表示しないと」 珍しく真剣な表情で話している友人の顔をみて、もしこの次があるとすれば、彼女のアドバイスを必ず実行しようと、あたしは心に決めた。 Back Next |
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