イフ



――プロローグ――



 米花公園の隅に並んでいるブランコ、そこで先程からキィキィと金属のかすれた音が鳴る。ゴム段やらサッカーやらしていた子供たちも、みんな家に帰る時間だ。公園に人気は少ない。夕闇と夜の気配がせめぎあって薄暗がりから何かがヌッと現れそうな逢魔ヶ刻。彼女は惚けたようにブランコを漕いでいる。
 ここ数ヶ月 彼女はずっと悩みぬいているのだ。『これからの自分』について。



「よォ、こんなとこにいたのか。博士が探してたぜ」
 突然あらわれた声の主に驚きながら、彼女はこの偶然の瞬間を、少しだけ何かに感謝する。
「子供じゃないんだから、心配しなくてもすぐに帰るわよ。名探偵さん」
 そうだな、たしかにもう子供じゃない。
 ブランコに座っている制服姿の彼女を見ながら、新一は考える。世間的に思春期と呼ばれる時期にさしかかり、この所めっきり艶めいて不思議な美しさを顕わしはじめた、中学生の灰原哀を。
 本来おとなであったはずの哀に、思春期という呼び名は適切でないかもしれないが。
「おめーよ、ほんとに元の姿に戻る気はないのか?」
 隣のブランコに腰掛けて、新一が問いかける。
「前に何度もいったはずよ。たとえ姿は戻れても、私に帰る場所はないわ。それに……」
 淡々と他人事のように話す哀に、新一は少なからず痛ましさを覚える。ともに闘った同士であり、かけがえのない友人でもあるのだから。


 あの時 灰原は完成したクスリを、まず俺に渡してよこした。
 ずっと戻りたいと言ってたじゃない。あなたをずっと待っている人がいるのだから帰らなければならないのよと、おおよそいつもの灰原らしくない激しい口調で俺を説き伏せたのだ。
 そして『江戸川コナン』はみんなに別れの挨拶をし、両親のいるアメリカに旅立った……ことになっていた。
 それからの俺は工藤新一として、繋ぎ直したフィルムのように『いま』を生きている。
 クスリの化学式も研究成果もすべて灰原自身の手で闇に葬った。もう二度と誰の目にも触れてはならないものだから、と言って。もしまだ残っているものがあるとしても、それは灰原の記憶の中だけにあるはずだ。


「着実に成長を続けていく私の体は、この世界にただひとつの、あのクスリの臨床例でもあるのよ。黒の組織も壊滅し、あなたも元の姿に戻った今となってはね。こんな僥倖を、科学者としての私が、見逃すと思う?」
 かけがえのない存在でもある江戸川コナン、新一の中にあるその魂に向かって、哀は語りかける。
 大人の時間から子供の時間へ、そして今。随分と長い時を走り抜けてきた気がする。
一度は手駒になりながら、ずっと憎み続けてきた組織。それもとうに解体しウォッカもベルモットも、そしてジンもその行方はしれない。
 父や母、それに姉である明美も、追憶の中に霞んでいる。
 哀が心から求めていたのは、同じ時を共有したコナンであり、目の前にいる工藤新一ではないのだ。何故なら……。

「おっ、やべぇ。約束の時間に遅れちまう」
 哀の想いを断ち切るように、新一が腕時計を見ながら、慌しく立ち上がる。
「あら、デートの約束?」
 そう言えば今日は珍しくめかしこんでいること。
「依頼人と会う約束なんだ。服部の親父さんからの紹介でな」
 首もとのタイを窮屈そうに少し緩める。
「遅れたら大変ね。そのタイは蘭さんが見立てたのかしら?」
 学生生活を終え、まさしく探偵そのものとして活躍している新一を、哀は眩しく見つめる。
「おう。誕生日プレゼントだって言ってな。似合わねーか?」
 ちょっぴり照れくさそうに語る新一に、少しだけ心にさざなみが立つ。
「とても似合っているけれど。問題があるとすれば、それはあなたの着こなしの方ね」
「うっせーな。じゃ、ちゃんと帰れよ」
 からかう哀にそう言い捨てて、駆け足で立ち去っていく。
 その後ろ姿を見送りながら、哀はもう一度 物思いにふけっていく。



 いつまで保護者でいるつもりなのかしら。
 工藤新一の姿に戻っても、私を守り続けると言うの?
 哀の瞳には、駆けていく新一の向こうにあるものが、見えるような気がした。
 それは、どこかの場所で待っている依頼人の姿ではなく、蘭のカタチをしていた。

 そうだ。すべてをあるべき場所に戻さなければならない。
 カエサルのものはカエサルに。彼は彼女のもとに。




Next  Novels-ss