イフ



――エピローグ――




 そしてその日を境に、哀の姿は学校から消えた。



 欠席を続ける哀に周囲からは様々な憶測が飛び交ったが、宙ぶらりんで行きつ戻りつする光彦の気持ちの揺れは、とりわけ激しいものだった。
 自分では彼女を守れないのか。ならば何故あの時は受け容れてくれたのか。恋しい気持ちと疑問符は果てしなく繰り返す。
 意を決して阿笠邸を訪ねてみても、門扉はかたく閉ざされたままである。


 それは隣人の新一に対しても例外ではなかった。
 なにがしかの決意と苦悩を秘めてブランコを漕いでいた哀の表情が、新一の脳裏によみがえる。
 思い出すと抱きしめてやりたいような衝動にかられた。哀の想いはずっと前から届いていたのだが。「コナン」という名前だった頃から。
 それでも もう蘭を二度と泣かすようなことはできない、そう誓ったのだ。
「俺になんにも言わねーで、何処へいきやがったんだよ、灰原……」
 新一も姿をみせない人を探して、そうポツリと呟いた。








「本当に誰にも連絡しなくて良かったのかね? 哀クン」
「愁嘆場なんて苦手だわ。それに一生会えなくなるわけじゃないし」
 人の良さそうな阿笠の顔が珍しく曇っているのを見て、哀は軽く笑う。
「まぁ、そうじゃが……」
「それより博士、あとのこと、よろしく頼むわね」
 この人がいなかったら、自分はきっといま生きてはいなかったに違いない。そう思って愛すべきマッドサイエンティストの顔を、あらためて見つめる。

 ここ数ヶ月間を今日の旅立ちのために費やしてきた。違う場所で新たにスタートを切る。もしそんな事が自分に許されているとすれば、だが。

「うむ。わしもそのうちそっちに遊びに行くからな。何しろそこは……」
「ホームズを生んだ国……だもの。ベイカー街に住むわけじゃないけれど」
 微笑みながら阿笠の言葉を引き取って続ける。かの名探偵の名を口の端に乗せるとき、心がちょっとだけ痛んだ。

 さようなら、シャーロッキアンの名探偵さん。わたしの大好きだったひと。

「じゃ、もう時間だから行くわ。元気でね、博士」
 素っ気なく言って、ざわつく空港ロビーをたったひとりで歩いていく。その頼りなげな背中を、感慨をこめて阿笠は見送った。



 かの地での哀の新生活は、思っていたよりスムーズに進んでいた。むしろ騒々しかったのは、日本からの様々な反応のほうだったかもしれない。

 俺も遊びに行くからな、いやそれより前に親父やお袋がそっちに寄るようだ、そんときはよろしく頼む、という新一からの便り。その最後にはさりげなく、蘭との婚約が告げられていた。
 そのことを意外にも冷静に受け止めている自分に驚き、それでも間近で二人を見ていたら、きっと神経が焼き切れていただろうとも思う。

 光彦からの便りはもっと切々としたものだった。哀を失ってからの懊悩が、人柄そのままに綴られていた。いつかきっと追いかけて哀の元に辿りつきたいと思っていること。その為ならいかような努力も惜しまないつもりでいること。たとえ拒まれても守りたい気持ちは変わらないこと、等々。

 そうだ、この素直な気持ちがあのとき新鮮だったのだと、便りを読みながら思い返す。
 たくさんの重荷に耐え切れずに押し潰されそうだったあの頃、自分に向けてくれたまっすぐな光彦の眼差しがとてもあたたかで眩しかったのだと。破瓜の痛みに耐えて、なぜ彼を受け容れたのか、その理由があらためて薄紙をはがすように見えてくる。



 朝の支度は日本にいた時とあまり変わりない。
 簡単な朝食をすませてデイパックを背負い、学校へと出かける。違うのは制服に着替えないことくらい。飛び級で進学する案もあったが、毎日をゆっくりと生きていこうと思い、やめることにした。
 アパートメントの階段を下りて戸外へ出ると、十月の空気はかなり冷たく感じる。
 ワンブロックほど後方で、たたずんで哀が出てくるのを待っているクラスメイトの姿が見えた。気づいているのに気づかないふり。もうちょっとしたら後ろから追いついて、話しかけてくるのだろう。この三日ほどそんな調子だ。

 自転車のペダルを踏んで走り出す。
「おはよう、アイ」
 ほぉら来た。それでも、あらまた会ったわね、という風を装う。学校の話題、クラスメイトの噂話、他愛のない会話が続く。

「ところで今週の土曜日、アイは暇かな? いや忙しかったら別にいいんだけど」
 何気なく切り出したようでいて、少しだけ声が上ずっているのが可愛いらしい。
 褐色のウェーブの髪にがっちりとした体格。姿かたちはまったく違うけれど、この少年を見ていると誰かを思い出す。
「土曜日ね、さぁ……どうだったかしら」
「映画のチケットが一枚余っているんだ。よかったら一緒にどうかと思って」
 朴訥だけれど真摯な態度に、図書室で哀を抱きしめた背高のっぽの少年と面影が重なる。気持ちだけがタイムスリップして、心が少し温まる。
「アイは、その……恋人とか、いないの?」
 何も答えない哀に、少し不安になって少年は訊ねる。
「恋人ね。今はいないけど、でも……」

 私の心が誰かに捕まってしまう前に、追いついてこれるかしらね、光彦くん。
 心の中で問いかけながら、哀はくすりと小さく笑う。
 今日は学校から帰ったらメールを書こう。遠くで私を想ってくれている、優しいひとに。

「アイ?」
「ほら、急いで。授業が始まっちゃう」
 クラスメイトに声をかけ、ペダルを踏み込んでスピードをあげる。
 頬に受ける冷たい風が、今朝は心地よい。



 そう、もし、もしもそんな明日があったとしたら。



Back  Novels-ss  ―― fin.






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