雪柳



――― 1 ―――



 うたた寝をしていたらしい。
 BGM代わりに付けていたテレビは、いつの間にか舞台劇の中継に変わっていた。
 まだ二日酔いが残っていて、頭がぼんやりとする。明け方まで飲んで、吐き気と頭痛で夕方頃に起きた。迎え酒を飲んでるうちに、また寝てしまった。カーテンの向こうはすっかり暗い。どうやら一日を無駄に過ごしたようだ。
 最低。女としての人生終わってる。

『どうあっても、わたしと一緒に生きては下さらないと……仰るのですか?』

 舞台劇は愁嘆場に差し掛かっていた。ドレスの女が、立ち上がろうとする男に語りかけている。動きのあまりない舞台を、目だけで追っていく。切々とかき口説く女優のセリフは、もう耳に入らなかった。忘れようとしても脳裡から消えない会話が、テレビの映像に重なって聞こえた。


「いま、なんて言ったの?」
「君とは結婚できない。だからこれ以上一緒にいられないと、言ったんだ」
 声はちゃんと耳に届く。でも意味が分からない。
「正月に帰省しただろ? あのとき彼女と、あらためて結婚の話が出てね」
 なに……何を言ってるの、この人は。
「そういう事なんだよ……付き合って五年になる」
 回転を止めていた頭に、言葉の意味がゆっくり沁みてくる。言ってやりたい事が山ほどあった。沢山ありすぎて、どれから話して良いか見当もつかない。口を開けたり閉じたりして、酸素を取り入れるので精一杯だ。
 彼女って誰よ。そんなの知らないし。
「だから、君とは結婚できない。この半年間、楽しかったよ」
 なんでこんな、胸のつかえが取れたみたいな、清々しい笑顔で話せるんだろう。わたしとの付き合いは、たった今から、楽しい思い出に変わっちゃったんだろうか。そんなの早すぎる。
 少しずつ視界に霞がかかっていく。淡々と語る彼の顔が、よく見えない。
「やり直せないのかしら。わ……わたしに、悪い所があったら直すし」
 ここは二股かけてた男のほうを、責める時じゃあないのか。付き合い始める前に言ったはずだよ。二股はイヤだって。
 ポタンと温かい雫が、手の甲に落ちた。泣いているわたしと目を合わせずに、彼が続けた。
「朝、電話がかかってきた事があったよね。あれ、彼女からのモーニングコールだった」
 ガーンと殴られたようなってのは、こんな感じだろうか。だんだんと耳が聴こえにくくなる。
 いつも抱かれるのは、彼の部屋だった。すぐ帰らずに暖かい腕の中でまどろむ時、朝早く電話が鳴っていた。「お袋からだ」そう言って笑ってたけど……違ったんだ。体を貪った女の隣で、郷里の恋人からの電話に応えていたのか。
 残酷な現実から目を逸らすように、ぼんやりと彼の部屋を見回した。テレビの上、あんなところに写真立てなんて、あったっけ?
「君が来るときは、いつも隠してた。ごめん」
 訊ねる前に答えてくれた。写真立ての中、生真面目に唇を引き結んだ彼の横には、やさしげに目を細める髪の長い女性がいた。
 はじめまして。あなたが、そうなんですね。
 「ごめん」の三文字では済まないけれど、どう謝られても事態は変わらない。
 わたし、鈍すぎだ。最悪。
 溢れてくる涙を指先で拭った。彼の顔がよく見えなかったから。
「今まで、君と一緒にいて本当に楽しかった。ありがとう」
 肩の荷を下ろしたような表情で微笑まれて、ゲームオーバー。それでおしまい。


 回想の旅から戻ってくると、テレビに映る舞台は暗くなっていた。中央にピンスポット、袖に去っていく男。ドレスの女はソファに崩れ落ち、縋りつくように片腕を伸ばしている。
 女々しい。未練たらしい。辛気臭い。チャンネルを変えようとリモコンを手に取った。
 ちがう。未練たらしいのは、わたしの方だ。
 すっきり別れられたら、いい思い出になったろうに。写真立ての彼女は遠く彼の郷里にいて、わたしはすぐ近くにいる。この距離はわたしにとって有効かもしれないと、こずるい考えが湧いた。
 理性では駄目と分かっていても、夜になると寂しさが募る。諦めきれずに彼の姿を追いかけた。
 あの日、清々しい顔で別れを告げた彼が、苦虫を噛み潰したように欲望をぶつける。
「なんでそばにいるんだよ。いたら抱いちまうじゃないかよ」
 苛立たしく呟いて、わたしの中で精を放つ。そんな関係が数度続いた。
 そして二週間前、彼に電話が繋がらなくなった。アパートの部屋は、もぬけの殻だった。
 もう会えない悲しさと同時に、彼をそこまで追いこんだ自分が情けなかった。二股かけられてフラれ、未練がましくつきまとって男に逃げられた女。それが、わたしだ。最低最悪。どこをどう切ってもロクなもんじゃない。情けなくって涙も出やしない。

 ぼんやりしてる間に、テレビは邦楽に変わっていた。スイッチを切った後の静寂が怖くて、手の中でリモコンを玩ぶ。音楽をかけに、立ち上がるのも面倒くさい。
 喉がひどく渇いていた。テーブルの上にあった、飲みさしの缶ビールに手を伸ばす。これで、二股フラれストーカー女に、アルコール依存症まっしぐらが追加される。
『君とは結婚できない』
 なにバカ言ってんだか。結婚なんて考えた事なかった。
『いたら抱いちまうじゃないかよ』
 いいんだって。それでも一緒にいたかったんだから。
 口に運んだ缶ビールは、ほとんど中身がなかった。こんな時に限って、冷蔵庫に買い置きがないマーフィー。気のぬけたビールを一口だけ啜りこむ。
 エッチな事に詳しそうな顔をして、男のヒトのものを飲むのは、彼が初めてだっだ。舌に感じる微かなビールの苦味が、あの時の味みたいで、鼻の奥がツーンとした。

 テーブルに缶を置くと、急に電話が鳴った。あり得ない事だけど、もし万が一、彼だったらとディスプレイを見つめる。
 残念、はずれ。浮き上がった気持ちが萎む。
「夜分遅くすみません」
 電話の向こうで目一杯、恐縮した声を出しているのは、同僚で後輩の幸野だった。
「うん。遅いね、すごく」
 日曜の夜、十時をまわったところ。軽い嫌味に、回線の向こうが固まっていた。怒っているんじゃない。去っていった彼の声が聞こえて来ない事に、わたしが勝手に拗ねているだけ。普段から礼儀知らずではない幸野がかけてくるなら、よほどの事態なのだろう。
 相手の出方を待つ沈黙が、しばし。
「あの……」「それで……」
 ふたりとも同じタイミングで言いかけて、ぷっと吹きだした。
「いいよ、起きてたんだし。なにか急ぎの用だったんでしょ。話して?」
 促すと、ホッとした様子で話し出した。
 幸野が明朝に必要としている資料を、わたしが家に持ち帰っているのだと言う。朝に渡して貰えればいいと思っていたが、休日出勤をしながら準備をしていたら、明日はわたしが直行なのに気づいたので、と。
「M駅でしたっけ。幸野さんが住んでるとこ」
「はい」
 最寄り駅から三駅、車で走れば十分ほどで着いてしまう。が、まだ酔いの残っている状態ではそれもままならない。電車で届けるか、タクシーを拾うかと逡巡する間、また沈黙が続いた。ふと幸野には普段からこういう所があるなと思った。穏やかに見守られていると、感じる時がある。
「遅い時間ですが、これから取りに伺ってもいいですか?」
「助かったぁ。実は飲んでいて、出かけるのが億劫だったの」
 つい本音を漏らすと、「だと思ってました」と言って、クスクス笑った。
「場所わかります? N公園の近くまできたら電話して。下まで降りていくから」
「了解です。ところで夏目さんは、笙がお好きなんですか?」
「ううん、たまたま。でも……キレイな音ね」
 付けっぱなしのテレビからは、か細く、それでいて包みこむような笙の音が流れている。さっきまでの滅入った気分が少しだけ和らいでいた。





 幸野からの電話は思ったより早く、休日のせいか道路も空いていたと言う。普段着にコートを羽織って外に出ると、生暖かく感じるぐらいの風が吹いている。雨が近いのか、空気には僅かに土の匂いが混じっていた。
 公園脇の道に、所在なげに立っている幸野の姿があった。こちらを認めると、
「お休みのところ、すみません」
 縮こまって会釈をする。
「大丈夫よ。はい、これでいいのかな」
「ばっちりです。ありがとうございます」
 手渡した資料を確認しながら、独り言のようにぽつりと呟いた。
「もう、泣かないでくださいね」
「えっ?」
 不意の事で胸を突かれた。
「目が少し赤いです。それと……さっき電話の時、泣いてるみたいな声だったから」
「気のせいよ」
 わたしの何を知っていると言うのだろう。労ろうとする幸野の気持ちを、素直に受け止められない。心のうちに踏み込まれるくらいなら、鎧を着こむほうが楽だ。
「じゃ、お疲れさま。また明日」
 素っ気なく言って踵を返した。幸野、ごめん。あなたは全然悪くないのに。可愛げのない自分が嫌になる。でも覆い隠していないと、壊れてしまいそうだから。
 目の前に白い指先が一瞬見えた。そのまま背後からわたしを包む。抱き締めようとする幸野の力は強く、身動きが取れなかった。
「何の冗談よ。人通りが少なくたって、大声だしたら誰か来るわよ」
「今ここで帰したら、夏目さん、また飲んだくれて泣くでしょ」
「余計なお世話っ……」
 首だけ捻って睨みつける、つもりだった。幸野の顔が至近距離なのに息を呑んで、わたしを見つめる眼差しに、言葉を失った。たじろいで目を逸らしたくなる。ひたむきな視線を、痛いほど感じる。

 体を包む腕が緩んだ。ゆっくり向き直ると、二本の腕がまた閉じこめる。額を肩に乗せ、トクトクと鳴る鼓動を聞く。幸野の腕の中は、不思議と居心地が良かった。
「給湯室で泣いてましたよね」
「見られちゃってた……か」
「あんな泣き方はして欲しくないので」
 一度だけ職場で泣いた事がある。彼が去った喪失感に耐え切れず、歯を食いしばっても涙が零れでた。触れられたくない苦い記憶だ。
「恋人になってくれと言ったら……怒りますか」
 どくん。心臓が跳ねる。
 知っていたのに、今までずっと見ないようにしていた、幸野の気持ち。さっき包まれていると感じたのは、笙の音だけではなかった。
「怒ったり、しないけど」
 誰かに寄り添うのは暖かい。肩の力がふっと抜けた。嗅ぎ慣れたタバコの匂いを探して、スーツの胸に顔を埋める。
「…………あ……」
 何をやってるんだろう、わたしは。幸野はタバコを吸わない。今はいない男の香りを幸野に求めるなんて、大ばかものだ。
「待って、夏目さん。こっちを見て」
 怯えて後ずさるのを、幸野は強い力で引きとめた。今のわたしは、亡霊でも見たような顔をしているだろうか。目の前に立つ男に寄り添える資格など、これっぽっちもない。
 とっさに掴まれた二の腕が痛かった。痛くて当然だ。わたしは幸野を、別れた男の身代わりにしようとしたのだから。
「だめなの……まだ、駄目なのよ」
 息苦しいほどの視線から逃れたくて、駄々っ子のようにかぶりを振った。
 歯軋りしそうに頑なだった、幸野の頬が緩む。
「忘れろなんて無理言いませんから。一緒にいられるだけで」
 また穏やかに包まれる。背中に回した手が、わたしを宥めるようにトントンと叩く。その仕草は幼子をあやす母親みたいで、少しずつ気持ちが凪いでいった。あやされているわたしは、だんだん小さく縮んで卑小になる。
 幸野の胸はとても暖かくて落ち着く。けれど、それを甘受するのはいけない事だと思う。
 顔を上げて幸野を見つめた。微笑んでいるようにも、苦痛に耐えているようにも見える、不思議な表情だ。やっぱり駄目だよと言おうとして、胸が苦しくなった。わたしの顔も、泣き笑いになっているのかな。
 両頬が、幸野の手で挟まれた。ひんやりした掌が気持ちいい。
 切羽詰まった様子の、幸野の顔が近づく。キス、されるのかもしれない。
 キスしたいのかもしれない、わたしも。
 でも、唇を、舌を、また誰かと比べてしまったら?
 目を閉じる寸前で、つと顔を背けてしまった。幸野の唇が頬に触れ、通り過ぎる。頬を挟んだ手にわずかに力が籠もり、溜め息を吐いたような息遣いが聞こえた。
「ごめ……ん」
 謝ろうとしたのに、わたしの語尾は小さく震える。
「夏目さんが謝る必要なんて、ありませんよ」
 どこか怒気を含んでいる。怖さではなく申し訳なさで、幸野と目を合わせられない。幸野の隣で微笑むのは、わたしのような後ろ向きな女じゃなく、もっと朗らかなひとがいい。だから離れなくては。片頬がすり合うほどの近さで、そんな事を考えていた。
 身じろぎして体を離そうとするのと、幸野が顔を伏せるのとが、ほぼ同時だった。
 首元に押し当てられた唇の感触に、びくりとする。
「ひっ……」
 くすぐったくて、ざわざわと皮膚が総毛だつ。
「唇へのキスは、駄目なんですよね?」
「そ、そういう意味じゃ……んっ!」
 逃げようと仰け反った喉に、降ってきたキス。今度は強く、強く吸われる。シャツの襟元、隠れそうで隠れない場所だ。
「痕がつくってばっ」
 抗議の声をあげると、やっと離れていく。吸われた痛みで、肌がジンとする。
「後で思い出して貰えるように、付けてるんですから」
 悪戯っぽく幸野の瞳が煌めいた。

 首筋の痛みは、わたしを少しだけ冷静にさせた。振られたてだから、落とし易いと思われているのでは。口説くにしてもタイミングが悪すぎる。
「泣いてたの知ってるんでしょ? 失恋したばかり。そんな気持ちになれないのよ」
「ずっと見ていて悔しい思いをしていたから。今しか、ないと」
 今しか、ない。
 短い言葉がリフレインする。わたしにそこまで想われる価値はないのに。
 落ち着かせるように、幸野の手が髪を撫でる。その優しさに誰かを思い出すから、今だから、イヤ。
「夏目さんの気持ちが、簡単に手に入るなんて、思ってませんよ」
 耳元で繰り返される囁きは、荒みかけたわたしの心にも甘く響いた。幸野が呟く度にそよぐ、呼気のこそばゆさと相まって、じわり、心に澱を落としていく。
「時々は思い出して貰えるように、痕をつければいい」
 唇が耳に触れるほど近づき、ぞわっとする慄きが走った。
「小さい、耳たぶですね」
 耳たぶが湿った唇の中に吸いこまれ、舌で嬲られる。
「ひゃ……」
 歯で軽く噛まれた後、ちゅるんと水音を立て、幸野の口に含まれていた耳が開放された。春の夜気がスカートの裾をはためかせる。唾液で濡れた耳もひんやりと、そこだけ体温が下がった気がした。
「バカね、痕なんていつか消えちゃうのに」
 時間が経てば消えてしまう。いつまでも一箇所に留まってはいられない。あの人と、同じ。
 幸野の唇はまだ耳元にあり、何かをやらかしそうな気配があった。
「消えたら、また付ければいいだけです」
 事も無げに言うと、唇が首筋を滑り降りた。シャツのボタンがひとつ、素早くはずされる。ブラが見えそうなギリギリの所まで、襟元がくつろげられた。
「なっ……!」
「大声出すと、誰か来ちゃいますよ。こんなとこ、近所の人に見られたいですか?」
 恥ずかしさに頬が熱くなった。はだけられた胸元を風が撫でる。誰かに見咎められたらという恐れで、背後を振り返る。
 人も車も、今は通っていない。既に玄関の灯を落とし、寝静まっているように見える一戸建て。少し遠くにある集合住宅の窓には、何箇所か明かりが残り、見える筈もない視線を感じてシャツをかき合わせる。
「危ない目に遭わせるつもりは無いので、安心して」
 そう言われて、はい、そうですかと、頷ける訳もなく。
「……信じらんない」
 呆れるのにも構わず、シャツを掴んでいた手を握り、そっとどけた。再びシャツがめくられ、幸野が顔を伏せる。吐息とも鼻息ともつかぬ荒い息遣いが、肌に降りかかる。冷静な口調とは裏腹な、興奮の度合いを表していた。
 片手を握られ、背を抱き締められている今の状態は、傍からは恋人同士にしか見えないだろう。熱い吐息を感じながら、薄茶色の柔らかそうな髪を見ている。すぐ近くにある心臓が、鼓動を早めた。

 そろりと唇が動いた。素肌に少しだけ湿った唇の感触。ブラを縁取るレースの辺りを、行きつ戻りつして、小高い丘をなぞっている。焦れるほどのゆっくりさに背筋が震え、目を閉じた。
 ここで止まって欲しいのか、先に進んで欲しいのか、自分でもよく分からない。けれど体の内を、とろとろ炙られているような昂ぶりがある。
 肌の上を擦る動きに違和感を覚えた。唇ではなく、なにか硬いモノが触れている。瞼を開くと、幸野の歯がブラの端を咥え、押し下げようとしていた。
「やめてっ」
 此処で脱がされるのは、とんでもなくまずい。蒼ざめて抗議するのも意に介さず、夢中で顔を伏せている幸野が、この時はじめて怖いと思った。
 ブラが下げられ、少しひしゃげた形で片方の乳房がまろび出る。公園の灯りに照らされた胸の隆起は、自分でも驚くほど白い。幸野は顔を離し、血走った目で食い入るように見つめている。春の夜風と視線とに晒されて、その先端が見る間に固く尖っていく。
 こんな乱れた姿を、誰かに見られるかもしれないのに、甘く疼いた気持ちになるのは何故だろう。
 幸野が顔を伏せ、膨らみの谷間近くを強く吸った。
「あ……」
 小さく喘ぎが漏れた。背を反らした拍子に、公園の植え込みで咲き乱れる、白い花が目に留まった。奔放な春の息吹を感じさせる雪柳が、今を盛りと四方へ枝を伸ばしている。
 ちゅぱっと高い音を立て、吸いついていた唇が離れた。乳房の中ほどに、薄紅い染みが残される。
「痕ついちゃったね。これ、しばらく消えないよ」
 恨みがましく言うと、
「その間は忘れないでしょう。今日のこと」
 幸野は満足げに笑った。

 遠くで車のエンジン音が響く。あられもない今の姿に、身が竦んだ。はだけた胸を隠すように、幸野が体を寄せる。そのまましばらく動かずにいた。
「大丈夫、こっちには来ないから」
 その言葉で緊張が解ける。危ない目に遭わせないと言ったのは、どうやら本当で、幸野は周囲に気を配っている。少し安堵して、それから不安になる。
 風がまた吹いて、剥きだしの胸を撫でた。ちりっと先端がしこる。そこに懐かしい愛撫があればいいのにと思い、そう考えてしまう自分に幻滅した。
「夏目、さん」
 幸野の声が少し震えている。
 息を大きく吸う音がして、体を屈め、尖った先端にしゃぶりついた。
 じんとする刺激に、足元がふらついた。ちゅくちゅくと捏ねる舌が、忘れがたい官能を呼び覚ます。駄目だ。幸野をあの男の身代わりにしちゃいけない。
 両手で幸野の肩を押し返そうとして、できなかった。唾液をまぶされた乳首は、時に痛いほど不器用に強く吸われる。喘ぎをこらえ、肩にそっと手を置くと、臆病に思えるくらい弱々しく先端を弄る。
 がむしゃらな勢いに混じる優しさが、とても幸野らしい。柔らかく唇に含まれている蕾が、焦れるように疼き、両手で幸野の頭を抱えた。
「んっ!」
 舌先が跳ねるように乳首を捉え、小さく声が漏れた。それだけで蜜が溢れてくるのが分かる。幸野がこちらを見つめ、声を出しちゃだめだよと、指でわたしの唇を覆う。
 誰かに見られちゃうかもしれない? すれすれの危なっかしさが怖くて、そして劣情を煽った。何かあったら、きっと幸野が守ってくれる。そんな勝手な目論みもある。
 胸元から響く執拗な水音がいやらしく思え、誰かに聞かれはしないかと瞳を巡らした。ちろちろと動く舌は懐かしい愛撫に似ている気がして、少し胸が痛い。それでも嬲られるたびに、塗り替えられたらいい。
 ずるい望みを抱えながら、幸野の指を舌先でなぞった。

 それを合図にして、幸野はブラを片手で押し下げ、もう一方の乳房もあらわになる。二つの膨らみは下着でたわめられ、さして大きくない胸を際立たせた。突き出た部分が唾液に濡れて、卑猥に光る。幸野は大きく息を吐き、灯りに照らされた胸を凝視している。
「ねぇ、やめよう……だめだよ」
「どうして? 誰かに見られるかもしれないから?」
「あ、当たり前よっ」
 可能性を指摘されただけで、恥ずかしさが蘇る。思わず叫んだ声が大きすぎて、慌てて口を掌で塞いだ。
「こんなえっちな夏目さんは、独り占めしたいけど」
 膨らみを軽く握り、指で乳首を摘む。
「ぁん……」
「見られるかもって思ったら、ヘンな気分になりませんか?」
 そんなの、いやだ。想像したくない。考えたくないのに、じわじわと幸野の言葉が頭の中を染めていく。このまま愛撫に身を任せていいのか、さっきから何度も悩んでいる。
 膨らみを揺する掌の動きは優しくて、緩急をつけて先端を嬲る指先はとても意地悪だ。まるでわたしの体をずっと昔から知っているような。目を瞑ると錯覚しそうで、切なさばかりが溜まる。
 身悶えする代わりに、首を力なく左右に振った。胸の双丘を掴んだ指の隙間から、さっき幸野が付けた薄紅色のしるしが覗く。脈打つ心臓に、とても近いところ。
 そう、これのせいだ、きっと。
 弄られすぎて乳首の先がじんとするのも、快感に押し流されて幸野を止められないのも、多分。

 シワ加工された薄手のスカートが、たくし上げられる。スカートがめくられた事より、周囲の様子が気になって後ろを振り返る。
「気になりますか。誰も見ていませんよ」
 今は大丈夫でも、その後は? 見られなければ、触られても良いのだろうか。自分の気持ちがわからない。
 太腿の内側に暖かな手が触れる。そっと撫で回し、足の付け根にまで至る。羽織っているコートと長めのスカートが、都合よく幸野の悪戯を隠してくれる。
 指先がショーツのラインを下へと辿る。その先にある潤みを知られたくなくて、身を固くした。幸野の息が荒い。下着の上から三角の膨らみを手で覆い、くにくにと揉み解す。奥にある敏感な突起を揺り動かすように、目覚めさせるように、ゆっくりと。
「はっ……ん!」
「夏目さん、声」
 喘ぎが漏れそうになるのを、幸野が人差し指でそっと制した。指はほんの一瞬、唇に触れただけで、また乳房を弄ぶ。わたしの喘ぎを止めようとするより、激しくなるのを幸野は望んでいる気がして、ぞくりとした。
 スカートの中に潜りこんだ指が、ショーツを片寄せる。頑なに閉じている襞を、指先が割って開く。
「すごい……」
 驚いたような幸野の声に、耳を塞ぎたかった。ショーツが湿っているのは分かっていたけれど、秘裂を指で掻き回されると、堰を切ったように蜜が溢れてくる。熟れきった花芯を探り当てられて潤みは更に増し、くちゅっと水音を立てた。
 これではまるで、幸野にされるのを待ち望んでいるようではないか。
「夏目さんて、濡れやすい?」
「ば……ばかっ」
 気持ちより体が暴走している。体が、懐かしい感触を欲しがって疼く。
 幸野の指が合わさった陰唇を縦になぞって、切なさに泣きそうになった。足元がふらつく。立っていられなくて肩にしがみつく。
 粘つく音が耳を刺激し、風がスカートの裾を揺すった。
 誰か、止めて。わたしが気持ちよくなるのを、止めて。
 指が襞を開いて、膨らんだ突起を剥き出しにする。やさしく撫でる指先に、思わず唇を噛んだ。
 いつまで耐えていられるだろう。声を抑えている自信がない。
 襞を掻きわけ、花芯を捉え、指は少しずつ潜りこむ。潤みに指が沈んだ時、わたしは小さく声を出した。蜜の溢れる源に、指が抜き差しされる。靴先でぬかるみを掻き回すような音も、激しくなっていく。聞こえている水音が、自分の体から出ているとはとても信じられず、打ち消すようにかぶりを振る。
「だめ、幸野さっ……イっちゃう……から、やめて……」
 快感に煽られて、立っているのも覚束ない体を揺らし、両腕で幸野の首筋に縋りつく。
「黙って」
 幸野は囁くと、ぬかるみから指を抜いた。
「イキたいなら、下着を脱いで」
 頂点の手前で取り残されて、頭がぼんやりとする。指を抜かれたすき間が、寂しげにひくつく。ふと周りを見渡した。静かな街並み、遠くで聞こえる微かな車の音。こんなところで下着を濡らして、わたしは何をしているのだろう。
「いま誰も来ませんよ。ね、脱いでください」
 指先が、下着の上から突起をまさぐる。そこから疼きが広がっていく。
 幸野がわたしの手を取り、ズボンの膨らみに添えた。はちきれそうになっているそこを、掌でそっと撫でる。
 覚悟を決めろというのだろうか。



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