幸野からの電話は思ったより早く、休日のせいか道路も空いていたと言う。普段着にコートを羽織って外に出ると、生暖かく感じるぐらいの風が吹いている。雨が近いのか、空気には僅かに土の匂いが混じっていた。
公園脇の道に、所在なげに立っている幸野の姿があった。こちらを認めると、
「お休みのところ、すみません」
縮こまって会釈をする。
「大丈夫よ。はい、これでいいのかな」
「ばっちりです。ありがとうございます」
手渡した資料を確認しながら、独り言のようにぽつりと呟いた。
「もう、泣かないでくださいね」
「えっ?」
不意の事で胸を突かれた。
「目が少し赤いです。それと……さっき電話の時、泣いてるみたいな声だったから」
「気のせいよ」
わたしの何を知っていると言うのだろう。労ろうとする幸野の気持ちを、素直に受け止められない。心のうちに踏み込まれるくらいなら、鎧を着こむほうが楽だ。
「じゃ、お疲れさま。また明日」
素っ気なく言って踵を返した。幸野、ごめん。あなたは全然悪くないのに。可愛げのない自分が嫌になる。でも覆い隠していないと、壊れてしまいそうだから。
目の前に白い指先が一瞬見えた。そのまま背後からわたしを包む。抱き締めようとする幸野の力は強く、身動きが取れなかった。
「何の冗談よ。人通りが少なくたって、大声だしたら誰か来るわよ」
「今ここで帰したら、夏目さん、また飲んだくれて泣くでしょ」
「余計なお世話っ……」
首だけ捻って睨みつける、つもりだった。幸野の顔が至近距離なのに息を呑んで、わたしを見つめる眼差しに、言葉を失った。たじろいで目を逸らしたくなる。ひたむきな視線を、痛いほど感じる。
体を包む腕が緩んだ。ゆっくり向き直ると、二本の腕がまた閉じこめる。額を肩に乗せ、トクトクと鳴る鼓動を聞く。幸野の腕の中は、不思議と居心地が良かった。
「給湯室で泣いてましたよね」
「見られちゃってた……か」
「あんな泣き方はして欲しくないので」
一度だけ職場で泣いた事がある。彼が去った喪失感に耐え切れず、歯を食いしばっても涙が零れでた。触れられたくない苦い記憶だ。
「恋人になってくれと言ったら……怒りますか」
どくん。心臓が跳ねる。
知っていたのに、今までずっと見ないようにしていた、幸野の気持ち。さっき包まれていると感じたのは、笙の音だけではなかった。
「怒ったり、しないけど」
誰かに寄り添うのは暖かい。肩の力がふっと抜けた。嗅ぎ慣れたタバコの匂いを探して、スーツの胸に顔を埋める。
「…………あ……」
何をやってるんだろう、わたしは。幸野はタバコを吸わない。今はいない男の香りを幸野に求めるなんて、大ばかものだ。
「待って、夏目さん。こっちを見て」
怯えて後ずさるのを、幸野は強い力で引きとめた。今のわたしは、亡霊でも見たような顔をしているだろうか。目の前に立つ男に寄り添える資格など、これっぽっちもない。
とっさに掴まれた二の腕が痛かった。痛くて当然だ。わたしは幸野を、別れた男の身代わりにしようとしたのだから。
「だめなの……まだ、駄目なのよ」
息苦しいほどの視線から逃れたくて、駄々っ子のようにかぶりを振った。
歯軋りしそうに頑なだった、幸野の頬が緩む。
「忘れろなんて無理言いませんから。一緒にいられるだけで」
また穏やかに包まれる。背中に回した手が、わたしを宥めるようにトントンと叩く。その仕草は幼子をあやす母親みたいで、少しずつ気持ちが凪いでいった。あやされているわたしは、だんだん小さく縮んで卑小になる。
幸野の胸はとても暖かくて落ち着く。けれど、それを甘受するのはいけない事だと思う。
顔を上げて幸野を見つめた。微笑んでいるようにも、苦痛に耐えているようにも見える、不思議な表情だ。やっぱり駄目だよと言おうとして、胸が苦しくなった。わたしの顔も、泣き笑いになっているのかな。
両頬が、幸野の手で挟まれた。ひんやりした掌が気持ちいい。
切羽詰まった様子の、幸野の顔が近づく。キス、されるのかもしれない。
キスしたいのかもしれない、わたしも。
でも、唇を、舌を、また誰かと比べてしまったら?
目を閉じる寸前で、つと顔を背けてしまった。幸野の唇が頬に触れ、通り過ぎる。頬を挟んだ手にわずかに力が籠もり、溜め息を吐いたような息遣いが聞こえた。
「ごめ……ん」
謝ろうとしたのに、わたしの語尾は小さく震える。
「夏目さんが謝る必要なんて、ありませんよ」
どこか怒気を含んでいる。怖さではなく申し訳なさで、幸野と目を合わせられない。幸野の隣で微笑むのは、わたしのような後ろ向きな女じゃなく、もっと朗らかなひとがいい。だから離れなくては。片頬がすり合うほどの近さで、そんな事を考えていた。
身じろぎして体を離そうとするのと、幸野が顔を伏せるのとが、ほぼ同時だった。
首元に押し当てられた唇の感触に、びくりとする。
「ひっ……」
くすぐったくて、ざわざわと皮膚が総毛だつ。
「唇へのキスは、駄目なんですよね?」
「そ、そういう意味じゃ……んっ!」
逃げようと仰け反った喉に、降ってきたキス。今度は強く、強く吸われる。シャツの襟元、隠れそうで隠れない場所だ。
「痕がつくってばっ」
抗議の声をあげると、やっと離れていく。吸われた痛みで、肌がジンとする。
「後で思い出して貰えるように、付けてるんですから」
悪戯っぽく幸野の瞳が煌めいた。
首筋の痛みは、わたしを少しだけ冷静にさせた。振られたてだから、落とし易いと思われているのでは。口説くにしてもタイミングが悪すぎる。
「泣いてたの知ってるんでしょ? 失恋したばかり。そんな気持ちになれないのよ」
「ずっと見ていて悔しい思いをしていたから。今しか、ないと」
今しか、ない。
短い言葉がリフレインする。わたしにそこまで想われる価値はないのに。
落ち着かせるように、幸野の手が髪を撫でる。その優しさに誰かを思い出すから、今だから、イヤ。
「夏目さんの気持ちが、簡単に手に入るなんて、思ってませんよ」
耳元で繰り返される囁きは、荒みかけたわたしの心にも甘く響いた。幸野が呟く度にそよぐ、呼気のこそばゆさと相まって、じわり、心に澱を落としていく。
「時々は思い出して貰えるように、痕をつければいい」
唇が耳に触れるほど近づき、ぞわっとする慄きが走った。
「小さい、耳たぶですね」
耳たぶが湿った唇の中に吸いこまれ、舌で嬲られる。
「ひゃ……」
歯で軽く噛まれた後、ちゅるんと水音を立て、幸野の口に含まれていた耳が開放された。春の夜気がスカートの裾をはためかせる。唾液で濡れた耳もひんやりと、そこだけ体温が下がった気がした。
「バカね、痕なんていつか消えちゃうのに」
時間が経てば消えてしまう。いつまでも一箇所に留まってはいられない。あの人と、同じ。
幸野の唇はまだ耳元にあり、何かをやらかしそうな気配があった。
「消えたら、また付ければいいだけです」
事も無げに言うと、唇が首筋を滑り降りた。シャツのボタンがひとつ、素早くはずされる。ブラが見えそうなギリギリの所まで、襟元がくつろげられた。
「なっ……!」
「大声出すと、誰か来ちゃいますよ。こんなとこ、近所の人に見られたいですか?」
恥ずかしさに頬が熱くなった。はだけられた胸元を風が撫でる。誰かに見咎められたらという恐れで、背後を振り返る。
人も車も、今は通っていない。既に玄関の灯を落とし、寝静まっているように見える一戸建て。少し遠くにある集合住宅の窓には、何箇所か明かりが残り、見える筈もない視線を感じてシャツをかき合わせる。
「危ない目に遭わせるつもりは無いので、安心して」
そう言われて、はい、そうですかと、頷ける訳もなく。
「……信じらんない」
呆れるのにも構わず、シャツを掴んでいた手を握り、そっとどけた。再びシャツがめくられ、幸野が顔を伏せる。吐息とも鼻息ともつかぬ荒い息遣いが、肌に降りかかる。冷静な口調とは裏腹な、興奮の度合いを表していた。
片手を握られ、背を抱き締められている今の状態は、傍からは恋人同士にしか見えないだろう。熱い吐息を感じながら、薄茶色の柔らかそうな髪を見ている。すぐ近くにある心臓が、鼓動を早めた。
そろりと唇が動いた。素肌に少しだけ湿った唇の感触。ブラを縁取るレースの辺りを、行きつ戻りつして、小高い丘をなぞっている。焦れるほどのゆっくりさに背筋が震え、目を閉じた。
ここで止まって欲しいのか、先に進んで欲しいのか、自分でもよく分からない。けれど体の内を、とろとろ炙られているような昂ぶりがある。
肌の上を擦る動きに違和感を覚えた。唇ではなく、なにか硬いモノが触れている。瞼を開くと、幸野の歯がブラの端を咥え、押し下げようとしていた。
「やめてっ」
此処で脱がされるのは、とんでもなくまずい。蒼ざめて抗議するのも意に介さず、夢中で顔を伏せている幸野が、この時はじめて怖いと思った。
ブラが下げられ、少しひしゃげた形で片方の乳房がまろび出る。公園の灯りに照らされた胸の隆起は、自分でも驚くほど白い。幸野は顔を離し、血走った目で食い入るように見つめている。春の夜風と視線とに晒されて、その先端が見る間に固く尖っていく。
こんな乱れた姿を、誰かに見られるかもしれないのに、甘く疼いた気持ちになるのは何故だろう。
幸野が顔を伏せ、膨らみの谷間近くを強く吸った。
「あ……」
小さく喘ぎが漏れた。背を反らした拍子に、公園の植え込みで咲き乱れる、白い花が目に留まった。奔放な春の息吹を感じさせる雪柳が、今を盛りと四方へ枝を伸ばしている。
ちゅぱっと高い音を立て、吸いついていた唇が離れた。乳房の中ほどに、薄紅い染みが残される。
「痕ついちゃったね。これ、しばらく消えないよ」
恨みがましく言うと、
「その間は忘れないでしょう。今日のこと」
幸野は満足げに笑った。
遠くで車のエンジン音が響く。あられもない今の姿に、身が竦んだ。はだけた胸を隠すように、幸野が体を寄せる。そのまましばらく動かずにいた。
「大丈夫、こっちには来ないから」
その言葉で緊張が解ける。危ない目に遭わせないと言ったのは、どうやら本当で、幸野は周囲に気を配っている。少し安堵して、それから不安になる。
風がまた吹いて、剥きだしの胸を撫でた。ちりっと先端がしこる。そこに懐かしい愛撫があればいいのにと思い、そう考えてしまう自分に幻滅した。
「夏目、さん」
幸野の声が少し震えている。
息を大きく吸う音がして、体を屈め、尖った先端にしゃぶりついた。
じんとする刺激に、足元がふらついた。ちゅくちゅくと捏ねる舌が、忘れがたい官能を呼び覚ます。駄目だ。幸野をあの男の身代わりにしちゃいけない。
両手で幸野の肩を押し返そうとして、できなかった。唾液をまぶされた乳首は、時に痛いほど不器用に強く吸われる。喘ぎをこらえ、肩にそっと手を置くと、臆病に思えるくらい弱々しく先端を弄る。
がむしゃらな勢いに混じる優しさが、とても幸野らしい。柔らかく唇に含まれている蕾が、焦れるように疼き、両手で幸野の頭を抱えた。
「んっ!」
舌先が跳ねるように乳首を捉え、小さく声が漏れた。それだけで蜜が溢れてくるのが分かる。幸野がこちらを見つめ、声を出しちゃだめだよと、指でわたしの唇を覆う。
誰かに見られちゃうかもしれない? すれすれの危なっかしさが怖くて、そして劣情を煽った。何かあったら、きっと幸野が守ってくれる。そんな勝手な目論みもある。
胸元から響く執拗な水音がいやらしく思え、誰かに聞かれはしないかと瞳を巡らした。ちろちろと動く舌は懐かしい愛撫に似ている気がして、少し胸が痛い。それでも嬲られるたびに、塗り替えられたらいい。
ずるい望みを抱えながら、幸野の指を舌先でなぞった。
それを合図にして、幸野はブラを片手で押し下げ、もう一方の乳房もあらわになる。二つの膨らみは下着でたわめられ、さして大きくない胸を際立たせた。突き出た部分が唾液に濡れて、卑猥に光る。幸野は大きく息を吐き、灯りに照らされた胸を凝視している。
「ねぇ、やめよう……だめだよ」
「どうして? 誰かに見られるかもしれないから?」
「あ、当たり前よっ」
可能性を指摘されただけで、恥ずかしさが蘇る。思わず叫んだ声が大きすぎて、慌てて口を掌で塞いだ。
「こんなえっちな夏目さんは、独り占めしたいけど」
膨らみを軽く握り、指で乳首を摘む。
「ぁん……」
「見られるかもって思ったら、ヘンな気分になりませんか?」
そんなの、いやだ。想像したくない。考えたくないのに、じわじわと幸野の言葉が頭の中を染めていく。このまま愛撫に身を任せていいのか、さっきから何度も悩んでいる。
膨らみを揺する掌の動きは優しくて、緩急をつけて先端を嬲る指先はとても意地悪だ。まるでわたしの体をずっと昔から知っているような。目を瞑ると錯覚しそうで、切なさばかりが溜まる。
身悶えする代わりに、首を力なく左右に振った。胸の双丘を掴んだ指の隙間から、さっき幸野が付けた薄紅色のしるしが覗く。脈打つ心臓に、とても近いところ。
そう、これのせいだ、きっと。
弄られすぎて乳首の先がじんとするのも、快感に押し流されて幸野を止められないのも、多分。
シワ加工された薄手のスカートが、たくし上げられる。スカートがめくられた事より、周囲の様子が気になって後ろを振り返る。
「気になりますか。誰も見ていませんよ」
今は大丈夫でも、その後は? 見られなければ、触られても良いのだろうか。自分の気持ちがわからない。
太腿の内側に暖かな手が触れる。そっと撫で回し、足の付け根にまで至る。羽織っているコートと長めのスカートが、都合よく幸野の悪戯を隠してくれる。
指先がショーツのラインを下へと辿る。その先にある潤みを知られたくなくて、身を固くした。幸野の息が荒い。下着の上から三角の膨らみを手で覆い、くにくにと揉み解す。奥にある敏感な突起を揺り動かすように、目覚めさせるように、ゆっくりと。
「はっ……ん!」
「夏目さん、声」
喘ぎが漏れそうになるのを、幸野が人差し指でそっと制した。指はほんの一瞬、唇に触れただけで、また乳房を弄ぶ。わたしの喘ぎを止めようとするより、激しくなるのを幸野は望んでいる気がして、ぞくりとした。
スカートの中に潜りこんだ指が、ショーツを片寄せる。頑なに閉じている襞を、指先が割って開く。
「すごい……」
驚いたような幸野の声に、耳を塞ぎたかった。ショーツが湿っているのは分かっていたけれど、秘裂を指で掻き回されると、堰を切ったように蜜が溢れてくる。熟れきった花芯を探り当てられて潤みは更に増し、くちゅっと水音を立てた。
これではまるで、幸野にされるのを待ち望んでいるようではないか。
「夏目さんて、濡れやすい?」
「ば……ばかっ」
気持ちより体が暴走している。体が、懐かしい感触を欲しがって疼く。
幸野の指が合わさった陰唇を縦になぞって、切なさに泣きそうになった。足元がふらつく。立っていられなくて肩にしがみつく。
粘つく音が耳を刺激し、風がスカートの裾を揺すった。
誰か、止めて。わたしが気持ちよくなるのを、止めて。
指が襞を開いて、膨らんだ突起を剥き出しにする。やさしく撫でる指先に、思わず唇を噛んだ。
いつまで耐えていられるだろう。声を抑えている自信がない。
襞を掻きわけ、花芯を捉え、指は少しずつ潜りこむ。潤みに指が沈んだ時、わたしは小さく声を出した。蜜の溢れる源に、指が抜き差しされる。靴先でぬかるみを掻き回すような音も、激しくなっていく。聞こえている水音が、自分の体から出ているとはとても信じられず、打ち消すようにかぶりを振る。
「だめ、幸野さっ……イっちゃう……から、やめて……」
快感に煽られて、立っているのも覚束ない体を揺らし、両腕で幸野の首筋に縋りつく。
「黙って」
幸野は囁くと、ぬかるみから指を抜いた。
「イキたいなら、下着を脱いで」
頂点の手前で取り残されて、頭がぼんやりとする。指を抜かれたすき間が、寂しげにひくつく。ふと周りを見渡した。静かな街並み、遠くで聞こえる微かな車の音。こんなところで下着を濡らして、わたしは何をしているのだろう。
「いま誰も来ませんよ。ね、脱いでください」
指先が、下着の上から突起をまさぐる。そこから疼きが広がっていく。
幸野がわたしの手を取り、ズボンの膨らみに添えた。はちきれそうになっているそこを、掌でそっと撫でる。
覚悟を決めろというのだろうか。
NEXT