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 い・た・ず・ら



――  10 ――



 何かが入り口を乗り越える違和感。手の平に伝わる、押し返そうとする肉の弾力。
 気持ちは望んでいるのに、本能的に体が拒否しているのか。それともうっすら汗をかくほど緊張しているせいか。
 瞼を閉じ息を吐いた。
「ん……は……ぁ」
 分けいってあたしの中が犯される。
 少しずつゆっくりと進んでいくチューブ。
「あ……」
 ひやりとする温度差を、体の内部が感じ取る。液体ノリって冷たいんだ。驚いて思わず手を放してしまった。スリットに半ば埋まってしまったチューブは、扱う手がなくなっても抜けずに差しこまれたままだ。
 股間からニョッキリと異物が生えている姿に、慄然とする。
 なんて馬鹿馬鹿しい一人遊びをしているのかと、首筋が粟立った。
「いやぁ」
 もうこんな遊びはもうやめようとチューブに手を伸ばした時、それはむずむずと動き出した。
 肉襞が異物を外へ押し出そうとしている。
「ひっ……やぁ……ぁん」
 ゆるりと円を描いて、まるで意志を持っているように揺らぐ。皮肉なことにチューブの動きで、敏感な入り口に微細な振動が伝わる。
 チューブがぬめって抜け落ちようとするのに、あたしは喘いでいた。
 じわじわと感覚だけが鋭さを増して、挿入したスリットから波紋のような慄きが全身に広がっていく。異物が去ろうとする隙間から、熱い汁がこぼれていると感じた。
 それはわずかの時間だったのかもしれない。でもその感触はあまりにも気持ちよくて、入り口でうねるこの動きが、永遠に与えられたら嬉しいと思っていた。
 唇でなにかを啄ばみ咥え食むように、体の奥深くが きゅんと鳴り、逃げていくチューブを露にまみれた柔肉で噛みしめる。見下ろした光景は、淫らというより滑稽でしかなかったけれど、はじめて得る感覚にあたしは胸をときめかせる。
 かくん。
「あっ」
 蠕動する襞に端まで押し出されたチューブが、うなだれて床に落ちようとしていた。


 さみしい、淋しい、寂しい。
 あたしの中を埋めていたものが、あたしの中から去っていくのが寂しい。
「嫌っ……まだぁ……」
 発作的に手を添えた。いま欲しいものを、まだ味わっていない。
「んっ、んん……あぁぁっ!」
 唇を結んでも喘ぎは漏れてしまう。声を抑えることすら忘れていた。
 液体ノリのチューブを挿入しているのは自分の両手なのに、誰かに抉られ貫かれているという妄想が捨てきれない。
「あっ、ぁん……」
 やめて。そんなことしないで。こわれちゃう。
 心の中でそれは、肉洞を掻きわけ侵略する男性のシンボルだった。
『ほぉら……あんたも もっと楽しめよ。そのほうがお互いに気持ちがいいだろ?』
 漫画の中でヒロインをレイプした男の声が聞こえる。
「はっ、は……ひっ……」
 チューブを握る手が小刻みに動き、あたしの中をかき混ぜる。足の狭間からくちゃくちゃと湿っぽい音がした。
 最初はおそるおそるだった手の動きが、しだいに大胆になっていく。あたしの隙間が満たされ埋められる。もっと溢れるくらい一杯にしたい。たりないから。
 奥へ。深くふかく。
 この体はどこまで呑みこむのだろう。まだ指でも触れた事がない最奥に到達する。
 こつん。体の中心を打ち鳴らすような、鈍い接触があった。
 奥まではいった。ぜんぶ埋めちゃった。
 自分の内部構造はもちろん知っている。突き当たったのは赤ちゃんを待つ大事な場所。その扉を、股間に突き立てたチューブがノックした。
 不思議な気持ちだった。気持ちいいのとも違う。心の中がしんとするような、胎内に響くノックの音。確かめたくてそっと何度も繰り返し突き当てる。
「あっ……あぁぁ……はぁっ。や……だめ……おかしくなるぅ」
 体を内側から揺さぶられている。
 そのまま続けていたら、あたしはどうなっていただろう。更なる快感を得ることができただろうか。


「直子ー! ご飯よ。降りてきなさい」
 母の呼ぶ声で我にかえった。
「はぁい。いま行くー!」


 現実に戻って冷静になると、制服のブラウスをはだけスカートをめくりショーツを脱ぎ、あまつさえ液体ノリのチューブを挿入している自分の姿。
 いやらしいというより、大馬鹿者じゃないかと思った。
 何はともあれ、普段着にきがえて一家団欒の席につかなきゃならない。
 先ほどまでときめいて受けいれたはずのチューブを、妙に醒めた気分で引き抜こうとする。
「くっ」
 意外にも深く呑みこんでしまい、咥えこんで離さないあたしの秘部。
「はぁぁ……んっ」
 静かに息を吐いて体の力を抜く。内襞を滑り吐き出す感触に、ぶるっと背中に震えが走った。
 くち。
 粘着質の音を立てて抜き取る。
「あ……」
 先端が去っていくとき、また小さな声を漏らした。甘い響きが混じっている。入り口を擦られる刺戟に、心より体が素直に反応する。まだ欲しいとその場所が新しい潤みを生んでいた。


「ちょっとぉ、まだなの? おかず冷めちゃうわよ」
「はいはーい」
 慌てて返事をして大急ぎで服を着る。こんなタイミングで母に部屋に入られたら一大事だ。
 で、どうしよう、これ。捨てるのもあれだし。
 抜き取ったばかりのチューブは一面にねっとりした液体で覆われて、ほわんと雌の匂いすら漂ってくる。とりあえずそれを小さなタオルでくるみ、カーディガンのポケットに押しこんだ。


 足早に下に降りて、洗面所にはいる。手を洗うついでにチューブも洗ってしまうつもりだ。
 タオルから取り出そうとして触れた途端、びっくりして取り落とした。
 温かい。
 生暖かいチューブの温度が、それが胎内にあったと告げる。さっきまであたしがえっちな遊びをしていたと。
 恥ずかしい。いたたまれない。
 ふと目の前の鏡を見た。頬を赤く染め困惑した表情の自分と、目が合った。



 * * * * * * * * *



 ざわざわとした昼休み。ベランダの柵に頬杖をついて、ぼんやりクラウンドを眺めている。眠くなってしまうほど、ぽかぽかしていい天気。
 去年までは、あの場所に先輩がいた。スリーオンスリーでバスケに興じているのや、ひとりでランニングしている様子をずっと見ていた。
 告白なんてする勇気もなかったけど、先輩が卒業してからもこうやっていつも見ていた。砂埃の中で先輩が会心のシュートを決めて、立っているような気がしたから。
 いつからだろう。先輩の姿を探そうともしなくなったのは。
 それはきっとあいつのせいだ。


「おう。今日はひとりなのか。珍しいな」
 声の主が誰だかわかったから、あたしは後ろを振り向かなかった。
 何の因果か、さっきまで頭の中で考えていた人物が現れると、バツが悪い。召喚したみたいで。
「なに見てんだよ」
「なにを見ていようと、あたしの勝手じゃん。小林こそ、人のクラスに何の用よ」
「ひなたぼっこ。用事がなかったら、ここに来ちゃいけねーのかよ」
 すっと隣に立つ。やばっ。距離が近い。
 校庭を見下ろし、努めて目を合わせないようにした。顔を見てしまうと、一言も喋れなくなる自分を知ってるから。
 会話が途切れたので、横目でそっと様子をうかがった。
 小林は柵に背中をもたれて、気持ちよさそうに目を閉じ陽の光を浴びている。ひなたぼっこなんて、じじむさいぞ。
 こんな近くで小林の顔を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする。クラス替えがあってから、離れて見つめているだけの遠い存在になってしまった。
 むこうが目を瞑っているので、今日は安心して観察できる。人懐っこい感じは相変わらずだけど、なんだか雰囲気が変わったな。体つきがガッシリして、肩幅なんか広くなって男らしいっていうか。手だって前より骨ばって大きく……。
「いつまで人のこと、じろじろ見てんだよ」
 きゃあ。このタイミングで目を開けるなってば。
「いや……なんとなく……ね」
 どきどきどき。赤くなるな、自分。頼むから。
 せっかく小林が近くにいるのに、話ができる状況なのに、変な奴だと思われたくないんだから。
「うー、やべぇ。五時間目、寝そう……」
 よかった。さりげなく不問にしてくれたらしい。小林はくるっとグラウンドのほうを向くと、柵に頭を乗っけて寝る態勢だ。
 またとない機会だから、観察再開。まつげ、意外に長いなあ。顔の輪郭がすこし変わった気がするのは、久しぶりに間近で見てるせいかしら。
 リップクリーム塗ってあげたいくらい乾燥してる唇だなって見つめていたら、その唇が動いた。
「そういえば水谷……夏休みにうちの近所、歩いてただろ」
 うぐっ。なんで知ってんの?!
「や、あれは……」
 暑くもないのに汗がたらたらと流れた。
 夏休み、友達とふたりで退屈して、暇だから好きな子の家とかチェックしに行こうって話になって、それで……。おまけに、そんな夏の話を今ごろ言われても。
「何しに来たんだ?」
「ほら、迷子になっちゃって」
 金魚のように口をパクパク。
「嘘つけー」
 小林は面白そうに、悪ガキの表情であたしを見ている。
 なんて答えよう。本当はあなたの事が気になって仕方がないから、こっそり家まで行ってしまいましたって、言える?
 あなたが好きなんですって……あわわわ、駄目だ。告白する心の準備ができてない。上手な言い訳も考えられない。万事休す。
「あ、あのね……」
 顔を上げて口を開きかけたとき、救いの神が現れた。
「小林くぅーん!」
 神なんだか、女神なんだか。あたしにとっては魔女かもしれない存在。
 鼻にかかった甘い声。すらりとした長身。色白の整った顔立ち。均整のとれた女らしい体つき。
 あたしが持ってないものを全部もってる桜井さん。今いちばん小林と仲がよさそうで、向こうはどうだか知らないが、個人的にはあたしの天敵。
「やっと見つけた。資料まとめ、しなくちゃいけないんだからぁ」
 ほら、お迎えがきたぞー、なんて囃したてる声も聞こえてきて。
「忙しそうだね……」
「ったく、うっせーったら。昼寝もできやしねぇ。水谷、じゃな」
 面倒くさそうに帰っていく小林の声と表情が、本当は嬉しそうなのか、それとも嫌がっているのかと探ってみるけれど、あたしにはどちらとも判別がつかなかった。
 さっきの小林からの質問が、窮地だったのかチャンスだったのか、わからないのと同じくらい。



 今日は小林と話ができて、いい日だったのか。それとも……。
 一日の終わりにお風呂につかり、ひとりで反省会をしてみる。
 すらっとした桜井さんの姿が、残像のように頭にちらついた。湯の中で手足を伸ばす。小麦色の肌、メリハリの足りない体つき。戦う前から負けが決まってるような敗北感。
 やっぱりついてない日、だったのかな。


 昼休みに小林を見ている時、閉じた瞼にキスしたいと思った。乾いた唇をぺろっと舐めたい、とも。
 わーーーっ。なに考えてるんだ、あたし。
 桜井さんと小林だったら、キスシーンも絵になる。
 あたしだったら……駄目だ。考えるの、やめよう。全然らしくない。


 雫を滴らせてお風呂からあがる。シャワーのコックから、水滴がぽたんと落ちた。バルブのパッキンが古くなっているのか、冷たい水が肌に当たり、体がびくっとする。
 シャワーコックを取り上げた。思いついて胸元に水を垂らしてみる。
 温度差に体が熱くなった。ぽつぽつと流れ落ちる雫に、震えた乳首が固くなりつんと勃起する。冷たいのに火照っていく不思議。手のひらに背中に、臍に太腿に、水滴がこぼれて転がる。足の間が濡れてくるのがわかる。
 指を太腿の隙間に忍ばせた。くちゅ。湿って暖かい体の中。この熱さを冷ましたい。
 頭の中が何かに憑りつかれたように、ひとつの想いだけが高まっていく。
 フックにシャワーコックを引っかけて、冷え始めた浴室の床に横たわった。さめていく体の表面の熱。昂ぶっていく体の中の熱。
 足を静かにくの字に折り、膝を立てる。糸状の水流が膝頭を叩き、内腿に細く垂れる。黒く縮れた茂みを濡らし、やがて体の左右へ、足の隙間へと筋になって伝わっていく。
 冷水を浴びせられた肌が魚みたいにびくんと跳ねて、背筋に淡い刺戟が走った。今からやろうと思っている事は、この間してしまった馬鹿馬鹿しい行為と同じくらい、誰にも言えない。家族にも友達にも、ましてや好きな人には。
 あたしの体の奥に眠っている、感じたがりの獣を起こす前に、深呼吸をひとつ。膝を開いた。蜜が溢れ始めた襞を、細い流れが叩く。
「はぅっ!」
 不意打ちくらったように変な声を出してしまい、慌てて口を抑えた。晒された割れ目を水滴が叩く刺戟に、反射的に膝も閉じていた。
 どんなに細くても上から落ちる水流の勢いは、侮れないものらしい。透明なテグスほどに勢いを調節して、いま一度チャレンジする。
 敏感な芽に雫が間断なく突き刺さり、びりびりした電流みたいなものが、脳天まで突き抜けた。
「んぁあっ……」
 怖い。息が荒くなる。手のひらで水を受け、大事な場所を覆う。
 このまま続けていたら、すごく大きな波にさらわれそうで、自分が自分じゃなくなってしまいそうで、怖くなる。
 本当にいいの? やめなくていいの?
 誰かが囁いた気がした。
 かまわない。あたしは知りたくてたまらないんだから。
 覆って隠していた指を、小さく開く。ほんのちょっぴり腰を持ち上げた。
 膨らんだ芽をかすめて、雫が滑っていった。水に打たれる震えが、そのまま体の震えになる。
「ぁっ、ぁ……ぁ」
 あたしの口からは、喘ぎというより意味のない言葉しか出てこなくなって、クライマックスを告げるドラムみたいな、連打される衝撃だけが胎内にたまる。体の内がいっぱいになってもまだ積もり続け、膨れ上がって出口を探している。
 腰が揺らぎ、足をばたつかせ、手が宙を掻いても掴むものはない。我慢できない尿意に近い、せりあがって弾けてしまいそうな大きな塊。
 大声で叫んでしまう。唇から咆哮が漏れてしまいそうだ。
 や、や、や……こんなすごいの、こわい。
 がくがくと体を痙攣させながら、指先でとらえた濡れタオルを、とっさに咥えた。
 うあぁぁぁぁ!!
 きつく噛みしめられるタオル。声にならないくぐもった音。溜まった力が一気に開放される。股間から頭のてっぺんまで、全身を貫き走っていく初めての激しい快感。ひくひくと震えて背を仰け反らせ、あたしは意識を失った。



「ちょっと! いつまでお風呂に入ってんのよ。直子!」
 怒声にも似た母の声が遠くに聞こえる。薄ぼんやりして夢の中のようだ。気づくと冷たい水が太腿を濡らしていた。
「あ……はーい! いま出るから」
 急いで起き上がったが、目覚めたばかりのようにふらついた。風邪をひきそうなほど体が冷えきっていたので、いったん湯船で暖まる。達したばかりの秘部が、じんじんと痺れていた。あの怒り方からして、そうとう長い時間ここで呆けていたらしい。勘のよい母のこと、あたしのおかしな行動に気づいたかもしれなかった。


 膝を抱えて温かい湯に身を浸し、理解したばかりの事を心の中に書きとめた。
 今わかっていることのいくつか。
 あたしの中には、暴れ馬のような「おんな」の部分がひっそりと眠っていて、いちど起こすと止めようがない。この遊びには強烈な磁石みたいな魅力があって、どんなに恥ずかしくてもやめられない。
 感じて乱れてしまうのは、冷静さを欠いた行為でひどく恥ずかしい。どんなに深く穴を掘って埋まっても足りないくらい。あたしを好いてくれる人にも、あたしが好きな人にも、見せられるものじゃない。自分に悪戯していることは、絶対に誰にも内緒。

 書きとめただけでなく、ひそやかな罪悪感、自分に対する嫌悪感といっしょに、あたしは心の内にしまった。





 仲の良い友達にも話せない秘密を抱えながら、それでも事もなく月日は過ぎていく。学校生活最後のイベントに突入しようとしていた。
「で、直子はどうするの? 卒業式のあと」
「ん……ぜんぜん自信ないけど、小林に第二ボタン、貰いにいく」
「そっか。泣いても笑っても、もう最後だもんね。直、がんばれっ」
 友達にドンッと背中を叩かれた。
 うわあ。そんなに応援するなよ。成功確率どう考えてもすっごく低いんだから。
 脳内コンピューターが弾きだした告白成功率は、10パーセント以下。桜井さんと小林は「ほとんどつきあってるも同然」と、もっぱらの噂だ。
 それでも気持ちの区切りをつけたい。欲しいのはボタンじゃなくて、多分それ。


 式当日は、思ったより担任の話が長引いて、やきもきさせられた。ちらほらと校庭に卒業生が残っている。小林の居場所をやっとこさ見つけると、息せききって走っていった。
 どきどき……あたしはいま、緊張してるかな。どちらかというと、いつもよりわくわく興奮している。変なの。
「はぁ、はぁ……小林ぃ……」
「おう。卒業、おめでとう。って俺もか」
 呼吸を整えながら、小林を見つめる。やっぱり最初にチェックするのは、胸のボタンの有無。
 そっか……。
「へへへ、卒業おめでとう。お互いに。小林に聞きたい事があったんだ」
「あん?」
「桜井さんとさ、その……つきあってる?」
 ぽんっ。音がしそうなほど、小林の顔が赤くなった。なんちゅう正直な奴。
「まぁその……これからっつーか」
「ふふーん、それでか」
 そこだけ綺麗さっぱり無くなっているボタンの穴を突っつくと、天を仰いで空とぼける。
 あたしは今日みたいに、小林と話をしたかっただけかもしれない。こいつが好きだって意識する前、屈託なくじゃれあってた頃のように。
「ったく。聞きたいのはそれだけか」
「うん」
 小林が頬を上気させ照れた顔をしてるのを、飽きることなく眺めていた。成功はしなかったけど、目的は果たせた、かな。
「じゃ、元気でね」
「おう。水谷もな」
 二・三歩あるきだしてから、立ち止まった。大事なことを忘れている気がして、振り向いた。まだ少し寒い春先の風。きれいに咲いてる桃の花。ぼけっと立ってる小林の姿。
「どした?」
「ん、忘れ物。ちょっと目をつぶって」

 あたしは、小林に、触れたい。

 突発的に、そう思って。爪先立ちでそっと唇を重ねた。
「なっ……!」
 目を丸くしてる小林の頬に、あっという間に赤味がさす。
 あたしはといえば、はじめてひとの唇に押し当てた感触に、くらくらと酔っていた。暖かくてふにゃっと柔らかくて、少し湿っていて。
 あたしキスしちゃったんだ!
 とたんに体中の血がくわーっと音を立てて、沸騰する気がした。
 あたしってば、なんてことを……。
 目の前の風景がぐらりと揺れ、混乱のあまり小林の顔すらさだかに見えなくなる。
「あ……わ、ごめんっ!」
 呆然と立ちつくす小林を残して、脱兎のごとくその場を逃げ出したのだった。



 ひどく一方的かつ自分勝手なファーストキスの後、小林とつきあいはじめた……なんて展開はまったくなくて。春休みにあたしの想いをよく知らない友達から、
「ねえ、知ってるー? 桜井と小林がつきあってるって。仲良さそうに公園でデートしてるとこ、○○が見たって」
 なんて情報が入ったりした。
 聞いているだけで胸がずきんと切なくなる。でもほんの一瞬だけ触れあった唇の温かさ、感触を思い出すと、つい頬が緩んでしまうのを抑えきれない。


 心に残る小さな棘のような痛みと、静かに気持ちが湧き立つようなキスの思い出。そのふたつを抱えて、あたしは新しい制服に身を包んだ。
 朝のラッシュは相変わらずで、乗る路線が変わっても、いい勝負の混雑加減。痴漢に遭遇する機会もそれなりに。

 タン、タタン、ガタタン、ガタン。
 密着する車内。息苦しいほどの人いきれ。既視感がふつふつと湧いてくる。
 さわっ。
 スカートの端に手がかかる気配。強引なやり方に眉をひそめ、嫌悪すら感じてしまう。
 そんな簡単にあたしに触れてはダメなの。嫌っ。
 沸きあがる怒りと忌避感で頭が沸騰していく。ぎりっ。スカートに伸びた手の甲を軽くつねった。それでも怯まず進んでくる指に脅えながら、誰だかわからない手に、爪の先をきりきりと食いこませる。諦めたように去っていく指に、ほっと小さく吐息を漏らした。
 身動きするのもままならない空間で、あたしが体を開く相手はこの世界のどこかにいるんだろうかと夢想する。きっとどこかに。
 母が好んで聞いていた歌の一節を思い出す。

 Everybody loves somebody sometime.

 今この瞬間にも、どこかで誰かが恋に落ちてるかもしれなくて。いつかあたしも。
 ひたり。体がびくりとした。今のいままで気づかなかった。お尻のあたりに張りつくようにして、暖かな手の感触がある。動かずじっとして、尻の丸みに添わされた手。
 しばらくして軽く揺するように、そっと動く。あたしを驚かさないように、呼吸に合わせるように。ふっと肩の力が抜けていく。
 そう、これならいい。じわりと生み出される快感。ひそやかにスカートの上を這い回る指。電車の揺れにまかせて体を預ける。背筋が少し震えた。じわりとどこかが熱い蜜をこぼす。
 到着駅まであと少し。秘密の時間がはじまる。

 感じられる指をどこかで待っているのだ。



Back ――― fin.




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