或る夜



―― 1 ――



 気まぐれに降った雨は午後になってようやくやんだが、すっきりしない曇り空だ。
 客先との打ち合わせを終えて愛車のハンドルを握る佳耶子の気持ちも、同じように曇りがちだった。目的地まで同乗する予定だった隆司の姿が、そこにいないためだ。


『遅くなってしまうかもしれないけど、必ず行くつもりだから。先に着いたら部屋でくつろいで待っていてくれ』
 今朝ほどの隆司の言葉を、頭の中で反芻する。
 仕事の都合などで、急に約束が反故になることは、前にも何度かあった。それでも佳耶子は彼を身勝手だとは考えていなかった。多忙な隆司が、自分のために時間をさいてくれる。それが素直にうれしいと思えてしまう。
 佳耶子の鷹揚な性格のせいでもあり、一心に隆司に惹かれているせいでもあった。

 でも、今日だけは特別。
 心の中でぽつりと呟く小さな澱みがある。いつもはごく短い逢瀬だが、今日は違う。明日の朝まで隆司の腕の中で眠ることができる。ぼんやりと心の奥に秘めている望みが浮かびあがる。
 ずっと一緒にいたい。
 普段は口にしてはならない願いが、喉元にこみ上げてくる。
 気温があがって、雨上がりの道路から湿気が立ち昇ってきた。パーキングエリアで冷たいコーヒーを買い、ジャケットを脱ぎ車内にエアコンを入れる。雲の向こうから、初夏の薄日がさしはじめていた。
 今日の私はどうかしている。楽しい日になるはずなのに。
 佳耶子は苦笑しながら、車に乗り込みハンドルを握った。それでも気持ちの奥底にある澱みは、相変わらず残ったままだ。今もこれから先も、いやこれまでもずっと、我知らず抱え続けてきた重苦しい滓かもしれなかった。


 車は高速をおり、一般道を走り続ける。車窓からの景色が田園風景に変わっているのを見てとって、佳耶子は眼を細めて微笑んだ。
 車の窓を開ける。生まれ育った場所の空気が嗅げるような気がしたからだ。
 新緑の香りが鼻をくすぐる。それと同時に故郷の母の言葉も、耳元で蘇った。


『玲子ちゃんも今年の秋、結婚するそうだよ。こんな話、言うまいと思っていたけどさ……あんたにお見合いの話も来てるんだよ』
 好きなひとがいるからとか、お見合いで結婚するのは嫌だとか、心配げな母の顔を見ていたら、口からでまかせの言い訳はもう終わりにしようという気になった。
 深呼吸をひとつして口を開く。
『母さん、あたしさ……好きなひとがいるっていったよね』
『ああ。なら、ここに連れてきなさいっていったじゃないか』
『ここには多分こない……そのひとね、奥さんがいるんだ。不倫なの』
 息を呑む音が聞こえた。その一瞬あとに、佳耶子の母はふっと息を吐いた。
『それで……いいのかい? あんたは』
『うん。わたしは言い出したらきかない子だって知ってるでしょ』
 責めるでもなく、気持ちを汲んだ母の深い想いが伝わっていた。空気の重さを吹き飛ばすように、朗らかに佳耶子は笑ってみせる。
『まったく……誰に似たんだか……』
 独り言のように呟くと、佳耶子の母は腰をさすりながら立ち上がる。思い直したように振り返ると、
『いつまでも続けられることではないよ。わかっているね』
 穏やかな声で語りかけた。
『そうかしら……』
 幾分か目をそらして答える。
『まあ……あんた次第だけどねぇ。男のほうからは切れないものなんだよ。覚えておきなさい』


 母さん、わたしはこれでいいの。他のひとは考えられないの。
 ハンドルを握り心のうちで呟く。車は山あいの細い道に入っている。せせらぎの涼やかな音が響く。急なカーブを曲がると、黒い紗を日よけにしたワサビ田が広がっていた。


 車を降りると夕刻近くだが、まだ眩しい木洩れ日の中だ。それでも澄んだ空気がひんやりとして、佳耶子は首をすくめ上着を羽織った。
 隆司が指定した今日の宿は、静かな木々の合間にひっそりと立っている。こんな所も用心深いあのひとらしいと苦笑する。
 宿帳に名前を書きこむ段になって、ほんの束の間ためらい、その後すらすらと嘘の名前を書きこんでいく。仰田隆司・佳耶子と。ごっこ遊びをしている嬉しさと、罪悪感が入り混じる奇妙な感覚だと思った。
 結婚そのものに憧れも幻想も抱かない。彼の妻であることも望まない。今の状態がベストだと信じて疑わないのだが、ひとりきりで部屋にいるときなど、思いもよらず自分の心が暴れ出すことがある。
 そんな時は、きっと隆司にも見せられない醜い顔をしているのだろう。今すぐ逢いたいと執着して叶えられず、駄々っ子のように泣きながら膝を抱えて眠る。泣き腫らした瞼を化粧でおおいかくし、やがて明るさを取り戻す。その繰り返しだ。
 気持ちの天秤が重く暗いほうへと傾いでいく。毛氈を敷き詰めた廊下を部屋へと案内される合間にも、心が鬱々として弾まない。


「こちらでございます。どうぞごゆっくり」
 部屋に入ってしばらく、窓の外の光景に見とれ佳耶子は立ちつくしていた。
「きれい……」
 窓辺に駆け寄ってガラス戸を開け放つ。耳に響く渓流の水音、夕陽をうける楓のみどり。澄んだ空気が愁いを少しずつ払っていく。
「来て……よかった」
 誰に聞かせるでもなく、自然と口をついて出た。隆司が宿を選んだのは、この景色を見せたかったのだと得心がいった。
 何を悩んでいたのだろう。迷うことなんてないのに。
 音高く鳥がさえずり、窓から一陣の風が吹きこんだ。頬にくちづけを受けたように感じて、佳耶子はひとり顔を赤らめた。



 ノックの音がして、佳耶子はうつらうつらした眠りから覚めた。
「はい……?」
「遅くなった。ごめん」
 弾かれたように立ち上がり、ドアの鍵をあける。
「きゃ……いたい。離してください。たか……」
「だめ。離さない。お風呂に入ったのかな?」
 いきなりのきつい抱擁の後、隆司の灰鼠がかった瞳が目の前で微笑んでいた。
 優しそうなこの眼に弱いのだ。見つめていると、想っていることの半分も言えなくなる。駄々をこねるのも忘れてしまう。
「ひとりじゃ退屈だったから」
 うすく髭の伸びかけた隆司の頬に、佳耶子は柔らかい唇を押しつける。
「ほんとうだ。いい香りがする」
 その存在を確かめるように抱きしめたまま、隆司の手がいつまでも頬を撫でている。
「隆司さん?」
「待たせたね」
「いいえ……」
 ぴんと張りつめた糸が、その言葉でぷっつりと切れた。膝から力が抜け、隆司の胸にすがるように顔をうずめて、嗚咽する。
「えっ……えっ、うっ…………」
 しゃくりあげるような泣き声は、両の掌で頬を挟んで顔を上げさせ、瞼にくちづけるまで続いていた。



 食事のあいだじゅう、佳耶子はよく飲み、よく笑った。グラスを重ねても顔に出ない隆司と比べ、頬が薄桃色に染まっていく。席を立つとき、足元が覚束なかった。
「ほら、しっかり!」
「だーいじょーぶですよぉ。部屋に帰るんですからぁ」
「困った酔っぱらいだな、まったく……」
「ちゃんとー、連れて帰ってくださいねー」
「はいはい、わかった」
 酔いで熱く火照った体を、抱きかかえるようにエレベーターに乗りこんだ。狭いスペースに石鹸の匂いでも、シャンプーの匂いでもない、馥郁とした女の香りが立ちのぼる。抱き寄せている浴衣ごしの肌の重みを感じて、隆司の身体のうちに勢いづくものがある。


 倒れこむように布団に転がる佳耶子をみて、隆司は小さく溜息をついた。
「まだ……八時なんだけどね」
「そうですけどー、ねむいんですぅ」
 まるで小さな子供に返ったようだ。苦笑しながら布団をかけてやる。
「隆司さぁん……忘れ物……」
「なに?」
「おやすみのキス」
 酔っているとは思えないすばやさで、首筋に両腕が絡まり、柔らかいもので隆司の唇がふさがれた。探るように差しこまれた舌を、強く吸う。佳耶子の熱い喘ぎが漏れた。その唇の隙間に混ざりあった唾液が流れこむ。
 こくん。佳耶子は小さく喉を鳴らし、
「だいす……き……」
 かすかな呟きを残して、隆司の首にしがみついていた細い腕が、力なく落ちた。
「しょうのないひとだな」
 慈愛に満ちた隆司の眼差しは、佳耶子には窺い知れない。すでに安らかな寝息をたてている。
「おやすみ」
 声を潜めた囁きが闇に溶ける。佳耶子の額にくちづけた。



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