囮捜査

――2



 乗りこむ、というよりは押しこまれるように、美和子の後姿が車内に消えていく。佐藤刑事の白っぽい服装は、グレーや紺のスーツやワイシャツ姿に隠され、人垣の隙間から見えるだけ。空調は効いているが、人いきれとすし詰めの圧迫感で、息苦しささえ感じる。
 実際に、美和子と高木の間には、数名の乗客がいるだけだ。距離にして二メートルに満たない。
 だが、この身動きの取れない空間で、いざ合図があった時に予定通り行動できるだろうか。急に美和子が手の届かない場所に行ってしまったように思えて、後から乗った高木刑事は、いわれの無い不安に駆られる。
 それだけではない。美和子とふたり同時に公休を取って、逸脱した捜査を行っている事がバレたりしたら……。捜査一課の面々を思い出し、想像しただけで高木の背筋はぞくりとした。

 混みあう車内で、佐藤刑事は何とか体勢を整えようと躍起になっていた。汗ばんだ肌が互いに密着し、不快感が増す。腕一本すら自由に動かす余裕はない有様だ。
 ようやっと体の周囲に、ほんの少しの隙間を空けると、油断なく周囲を見渡した。
 美和子が立っているのは、乗りこんだ扉と反対側の、扉の手前あたり。乗りこむと同時に人の波に流され、大きな力でこの場所に押しこめられたように思えたのだが、気のせいだろうか。
 すぐ近くの扉の前には、学生風の若い男。顔を外に向け、一心不乱に本を読んでいる。美和子の右側にいる年配のサラリーマンは、手摺に寄りかかり、額に浮いた汗をハンカチでぬぐっている。左側では小柄な初老の男が、半分に折り畳んだ新聞に目を落としていた。さりげなく背後に目を遣ると、OL風の若い女性が眠たげに瞼を閉じている。
 特に心配すべき事も無い、朝の通勤風景に見える。後ろに立っているのが女性だというのも、美和子の警戒心を緩ませた。
 車窓の向こうには、今朝もギラギラと太陽が照りつけ、入道雲が盛り上がっている。
 もし今日の囮捜査が空振りで、何事も起きなかったら。二人でゆっくりブランチを食べ、映画を観に行くのも良いかもしれない。それから……。楽しいデートの予定を想って、美和子の口元に自然と笑みが浮かんだ。

 乗降客がざわめき、また扉が開く。吐き出される人数より、吸いこまれる方が多い。
 高木は窮屈な姿勢で必死に佐藤刑事の姿を捜す。彼の場所からは、かろうじて美和子の頭の先が見える程度だ。美和子の少し後ろには、上背のある体躯の大きな男が立ち塞がっていた。せめて、こちらを振り返ってくれたら安心できるのにと思うのだが、電車に乗りこんでから一度も視線が合わない。
 やきもきする高木刑事をよそに、すし詰めの箱は提無津川を渡っていく。

 同じ頃、佐藤刑事の周りでは小さな異変が起こっていた。
 さわりと、美和子の尻を撫でる感触があった。痴漢かもしれない。そう思って美和子は眉根を寄せるが、確証はない。電車の揺れでぶつかっただけと、言い逃れる可能性もある。
 美和子は、そ知らぬふりをして次の出方を待った。スカートの中に手が入り、痴漢が言い訳ができない状況になるまで、待つのだ。罠をはって辛抱強く獲物を狙う、ハンターのように。
 細い指先が、ミニスカートに包まれた腰のラインを撫でた。掌が尻の丸みを覆い、その形を味わうような動きをする。やがて手は太腿に触れ、スカートの裾に辿りつく。
 現行犯逮捕のタイミングに備えて、美和子は呼吸を整えた。悪戯をしている腕を、片手で捻り上げるだけだ。高木刑事に知らせるまでもない。
 だが一体、この手は誰のものなのか。ふと興味を惹かれて、美和子はそっと背後の様子を伺った。
 やや骨ばった細い指が、アイボリーの布地をめくっている。ショーツに包まれた尻肉に辿りつくまで、あと数秒。痴漢の正体が、ふわりとしたワンピースをまとったOL風の若い女性である事を知ると、美和子の表情に驚きが走った。
 まさか。
 その瞬間、電車が揺れる。支えを求めて抱きつくように、背後から腕が巻きつく。「女性」は意外なほどの膂力で、美和子の自由を封じこめた。密着した体の隙間で、押し付けられる熱いかたまり。硬さと形状からして男の肉茎以外であり得なかった。
 女だと思っていたけど……そうではなかった?
 動揺する美和子を覗きこむようにして「女」がニッと笑いかける。喉元に見えるのは、男のしるしである突起。小柄な青年の女装姿だった。
 両腕の自由は利かず、背筋が冷える。助けを呼ぼうとした時、顔の前に手が突き出された。ずいぶん皺だらけの小さな手だ。その手がひらりと翻り、手の内に持っていたモノを美和子の口に被せた。
 透明な板に球形のものが付いた、ボイスシャットと呼ばれる口枷である。高木の名を呼ぶために開かれた唇には赤いボールギャグが収められ、透明な板が口元全体を覆う。
 美和子の左脇に立っていた初老の男は、新聞のコラムに目を通すふりをしながら、これだけの事を手早くやってのけた。透明な板に付けられた細い塩ビ製のベルトを、女装男が美和子のうなじで止める。唇は半開きのまま、美和子は声を奪われた。
 こいつら、グルなの?!
 なかばパニックに陥った佐藤刑事の両手首には、後ろ手に柔らかいテープが巻かれ、手錠を嵌められたように身動きできなくなった。
 狩る者と狩られる者の立場が逆転する。美和子の額に冷たい汗が滲んだ。





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