見知らぬ誰か

――2



 目の前に唇が近づき、吐息が顔にかかった。思わず顔を背ける。
「ああ、いい匂いだ」
 林田が私の髪の毛に、顔を埋める。次の瞬間、蛞蝓のように舌が首筋を這った。
「いやぁっ!」
 わからない。林田にこんな事をされる理由が思いつかない。
 耳から肌をなぞって降りてきた舌は、鎖骨の辺りまで達していた。肌に唾液を塗りつけられ冒されている感触に、ぞくりと寒気がする。
 なんで私なの? なんでこんなことするの?
 きっと何かの間違いだ。「ちょっと苛めたくなっただけ」いつもの軽い調子で、そう言って欲しい。
 首筋に触れていた粘つく舌が、覆い被さっていた林田の顔が、離れていく。舌で辿られた痕が空気に触れて、ぞわりと冷えた。続けて、ベストの三つボタンがはずされる。ブラウスのボタンにも手がかかる。
 冗談でも間違いでもなかった。こいつ、本気なんだ。
 舐められた肌だけでなく、心の底までシンと冷えていく。
 混乱した頭の中で、今私は同僚からレイプされようとしてるんだと、わかった。何故こんな事になったのかは、依然として理解できなかったけど。
 可能な限り腰をひねり、唯一自由になる足で林田を蹴る。こんなのあり得ない。あってはいけない事だ。
「やっ……やめて! 林田さ……!」
 闇雲にバタつかせた足は空を切ったが、何度目かに鈍い感触があって林田の脛に当たった。
「……痛っ! 怪我したくないだろ。暴れるな」
 初めて聞く林田の、低く抑えた声。囁くような声は、怒鳴りつけられるより怖い。
 暴れる私の足を両膝で押さえつけ、圧し掛かるように体が密着する。
「れ、冷静になってください。こんな事して、タダで済むわけな……」
「黙れ」
 息がかかるほど近くに、前髪を少し乱した林田の顔がある。いつもなら腹立たしく思える、人をコバカにしたような態度が、今は懐かしかった。こんな血走った目つきの同僚は知らない。私が知ってる林田じゃない。
 滲んだ涙で視界が霞んでいく。でも、泣いてる場合じゃないと自分に言い聞かせた。
「ヤだったら!」
 林田の顔が重なり、唇が塞がれた。息苦しい。
 和樹さんはもう会議室に着いただろうか。こんな近くにいるのに、私は恋人じゃない人に唇を吸われている。首を左右に振っても、林田は執拗に追いかけ、唇を押し付けた。どくんどくんと早鐘のように鳴っているのは、私の心音だろうか。それとも林田の、なのか。
 唇同士は触れ合っていても、その中までは自由にされたくなかった。ぬめった舌が、口元を舐め回す。少しの隙間を割って歯列をなぞり、舌先で歯茎にまで触れていくのだ。拷問のようなこの時間を早く終わらせたい。
「ん……くっ……」
 歯を食いしばり身じろぎした時に、気づいた。私の下腹部に、林田の昂ぶりが当たっている。
 犯され……るんだ。
 皮膚や肉付きを越えて、奥にある女の秘めた部分に、ひたと照準をあてられている実感があった。熱い昂ぶりと硬さ。目の前にいるのは同僚だけど、見知らぬひとのようだ。
 唇の周りを、自分のものでない唾液でベタベタに汚されて、ようやく攻撃が止んだ。それでも、わずかな期待をこめて目を開ける。見知った顔が其処にある事を願って。
「意外と、強情なんだな」
 林田はニヤリと笑うと、人好きのする整った顔立ちを歪めて見せた。薄い仮面の下から、崩れた顔がゆらりと透けたような、気味悪さがあった。
「嬉しいよ、児嶋さん。いたぶり甲斐があってね」
 ついさっきまで一緒に仕事をしていた男が、喉の奥でくぐもった笑い声を響かせる。林田の手で束ねられた両手首は、指の痕がつきそうなほど握り締められて、痺れを感じるほどだ。力では敵わないのだろうか。どこかに抵抗する術は、残っていないのか。
「席に戻らなくて、おかしいって……気づく人がきっといる筈だし。電話だって入るかも……」
「心配しなくていいよ。会議に参加してる事になってるから。ホワイトボードにもそう書いてきた」
 掠れ声で訴える私を、遮った。小さな子に語りかけるような口調だった。
「向こうの、会議が終わるまで、誰も、気づかない」
 区切って発音された言葉が、頭にゆっくりと沁みこむ。誰も気づかない。私は誰にも助けてもらえない。ワイン色がかったネクタイを解く林田の指先を、呆然として眺めていた。


 頬が冷たい。涙が幾筋もの流れを作って、顎まで濡らした。メイクなどとっくに落ちている顔を、白い扉に押し付けている。無機質な扉の感触は、背後から服を剥ぎ取ろうとしている男の心みたいに、ひんやりしていた。
 制服のベストが腕からするりと抜け、床で小さく衣擦れの音を立てる。何故私なのか。どうしてこんな場所で、同僚に犯されようとしているのか。そればかりをぐるぐると考え続けている。
 外された林田のネクタイが、手首にリボンのように巻きつく。
「なん……で?」
 後ろ手に拘束され胸を反らした姿勢で、何度目かの疑問を口にした。
「あなたがさ、ちっとも振り向かないからだ。俺なんか眼中にないって感じで、話するときも事務的で」
 林田の周囲に魅力的な女性は沢山いる。可愛らしい人も、セクシーな人も。社内で噂になっている、何人かの女性を即座に思い出せた。
「だから逆に燃えたね。どうやって堕としてやろうかって、考えながらワクワクしたよ」
 女に不自由している筈はないのだ。耳元で囁かれる言葉すべてが、信じられなかった。
 背後から抱き締めるように回された手が、ブラウス越しに胸を揉みしだく。
「はう、やぁっ!」
 くっつき合う体の隙間で、隆起した林田の強張りが指先に触れた。
「胸、柔らけぇ……くくっ、触ってくれるの? 最高」
 逃げ出そうともがく指は、林田を喜ばせる事にしかならなくて、唇を噛んだ。手際よくはずされていくブラウスのボタン。素肌に触れる林田の手と、背後で擦りつけられる昂ぶりが、次第に私をおかしくさせる。
 ブラ越しに張りつく掌は微かに暖かく、骨ばった指が胸の膨らみに食いこむ。いま乳房を揺すっているのは、自分のでも恋人のものでも無い指だ。なのに、体が熱さを増していくのは何故だろう。
「ほうら、乳首が立ってきた」
 林田の囁きは、私にとって知りたくないモノを見せつける。体が反応しているなんて、思いたくない。
「くっ……」
「声出していいって言ってんのに」
 している事とは裏腹に、林田の愛撫は控えめすぎるほど優しかった。耳たぶを吸い、ゆるやかに胸を弄る。時折弾かれる乳首は、ブラの中でより硬く尖っていく。
「やめて。お願いだから」
「いまさら止められると思ってる?」
 答えながら、いっそう強くお尻のあたりに怒張を押しつける。胸の膨らみを掬いあげた両手が、頂の手前で止まった。体の中で燻っていたものが、溢れ出して形になる。じゅわんと熱い雫が股間から滲みだしていた。
 感じた証など二度と零れださないように、太腿をきつく閉じ合わせる。
「お尻もじもじさせちゃって、一生懸命我慢してるんだ。ね?」
 背後から林田の忍び笑いが聞こえた。おかしくて堪らないという風に、笑い声はやがて大きくなった。
 かぁっと全身が熱くなる。今ここで赤面したら、からかいを肯定しているのと同じ事になる。火照った頬を隠すためとっさに俯くと、肩に手がかかった。体の向きが変わり、林田と目が合う。
 視界に入ったその姿に、背筋が震えた。スーツを着こんだ同僚が、私の知らない顔でこちらを見つめていた。はだけられ下着だけになった胸元に、肌がチリチリするほどの視線を感じる。





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