見知らぬ誰か

――1



『うっ……ダメだ、結子。そんなに激しいのは……』
 喘いでる和樹さんの声は、とってもステキ。聞いてると胸が切なくなって、喜んでもらえるなら何だってしてあげようって気持ちになれる。
 なのにいきなり、根元まで頬張っていた和樹さんのモノを、私の唇から引き抜いた。ちゅぽんと、ヘンテコな音がした。
『どうし、て?』
 ベッドに腰掛けた和樹さんは、私を見下ろすと、
『だーめ。このまま続けられたら、イキそうになっちゃうよ』
 苦笑いしながら頭を撫でてくれた。
 イっちゃっていいのに。口の中で熱い塊が弾けたら、とっても幸せなのに。
『せっかく久しぶりにゆっくりできるのに。結子の中を感じないって手はないだろ?』
 頬にかかった髪を梳くように掻きあげると、私の耳を舌先で舐めた。
 それはこれからお前の中を、コレで蹂躙するぞって言われてるのと同じで、火が点いたみたいに頬が熱くなる。足の間には、じわっと溢れる感触。何かを期待してるような自分が、とってもいやらしい。
 耳元でまた何か囁かれて。
 あれ? でも、この声……和樹さんじゃない?



「…………嶋さん? あの、よく寝てるとこ、悪いんだけど。児嶋さん?」
「ふぁ?」
 自分が出した間抜けな声にびっくりして、目が覚めた。
 目の前の、変わり映えしない課長のデスクに、本人は不在。その後ろにある壁掛け時計は、十二時四十分を指していた。まだ昼休み……そっか、夢か。
 夢に出てきた和樹さんは今私が付き合っている相手で、もう半年近くになる。社内恋愛だけど、このところお互い忙しくてデートもままならない。欲求不満気味なのかな。あんな事、いつもしたことないのに。エッチな夢を頭から追い出すべく、首を振った。
「目が、覚めたかな?」
「失礼しました。なんでしょう?」
 なるべく取り澄ました表情になるように努力しながら、声のする方を振り向いた。
「午後一の会議資料だけどさ。これ、まだ追加があったんだ。ごめん」
 溜息が出そうになるのを、必死で我慢した。でも呆れ顔にはなってるに違いない。
「わかりました。急いで揃えます。追加資料はどこから?」
「や、その……僕の机に残ってたんだ。どうしてかなぁ?」
 憮然としてるのを隠す気もなくなって、微笑んでいる林田の顔をつくづくと見つめた。
 優男風の、すっきりした顔立ち。軽く緩められた喉元のタイは、だらしなく見えないギリギリのところ。濃いグレーのスーツはとても似合ってるし、この顔で微笑まれたら、どんな女の子もイチコロだろう。
 ううん、この外面の良さに騙されちゃいけない。林田は調子がよくて上司に媚びるのも巧いけど、仕事はいつだって人任せだ。生真面目な和樹さんとは、ある意味対極なのかも。そもそも始めから、コイツとペアで仕事を組むのは気に入らなかったんだ。抗議の意味もこめて、無言で課長の椅子を睨みつけると、立ち上がった。気が進まない作業は早く終わらせるに限る。


「あの……資料はやっておきますから、どうぞおかまいなく」
 無愛想に聞こえないように努力しながら、呟いた。コピー機の脇に、ぼーっと突っ立ってられても困るのだ。苦手な相手と顔を突き合わせているのも、気詰まりだった。
「児嶋さんてさ、最近いちだんと綺麗になったよね。誰か付き合ってる人、いるの?」
 ほんの一瞬だが、ずるっと体中を舐めるように、林田は私を見た。嫌っているのは仕事の面だけじゃ無いかもしれない。コイツのこういう視線が特にイヤなのだ。
 新人の女の子に端から手を出しているとか、経理のお局様に可愛がられているとか、女に手が早いという噂には事欠かない。ケダモノのような視線は、私の心に警戒警報を鳴らす。
「いないですよ。そんなの」
 サラッと笑いながら躱した。秘密主義でもないし社内恋愛がご法度でもないけど、会社内では隠しておく方がやりやすい。和樹さんとの間で決めた事だった。ましてや林田に、私のプライベートを語る必要もない。
「ふーん、もったいないね」
 意味ありげにこちらを一瞥すると、書類を取り出した。
「あ。一緒に配りますから」
「じゃあ半分よろしく」
 まだ暖かい紙束を私の掌に置くと、先に立って会議室に向かう。すれ違いざま、
「コロン変えたの? いい香りだね。似合ってる」
 小さく囁いた。
 吐息のような声は、どこかゾクゾクする甘美な刺激だった。あれだけ噂を立てられながら、次から次へと女の子が引っかかってしまう理由が、ほんの少し分かった気がする。
 いけない、いけない。だから危険なんだ、コイツは。その手に乗っては駄目。
 林田の数歩後ろを歩きながら、今は無性に和樹さんに会いたいなと思った。今日の会議には出席すると聞いていた。セクションが違うと、仕事中に会うこともままならない。偶然に見かけたりしたらいいのにと、つい視線だけで廊下を探していた。


「これで準備は完了ですね」
 結局、和樹さんは遅れて来るらしく見つからなかったけれど、午後は少しのんびりできそうだ。
「しまった……プロジェクター、準備しろって言われてたんだ」
 マジですか。聞いてません、そんなの。
 しゃらっと今頃になって思い出す、コイツの神経が理解できない。抗議したり溜息をつく暇も、もう無かった。ざわざわと人の群れが会議室に吸いこまれていく。
「早くしないと、林田さん。会議の始まる時間が……」
 終いまで言わずに、第三応接室と書かれている扉を押した。その類の機器は、この部屋に置かれているはずだった。
「おっかしいなぁ。どこにしまっちゃったかな」
 十帖程度の小部屋。中央に応接セットが置かれ、片側の壁面には収納庫が並ぶ。林田はゆっくりした動作で端から調べている。とぼけたような物言いが、私を更に苛立たせた。倍のスピードで、反対側から扉を開ける。
 あった! これだ。
「ストーップ、もういいんだ。それは要らない」
「え?」
 意外なほど近くから林田の声がして、手首をぎゅっと掴まれた。すらりとした体のどこに、こんな力が潜んでいるのかと思うような握力だった。
「……っ、痛い!」
「鈍いなぁ。小さな部屋でふたりきりになった時点で、変だと思わないかな。フツー」
 首を捻り、振り返って見た林田は、顔だけ笑って目が笑っていなかった。
「耳、弱いんだよね。さっきビクッとしてたもの」
 生暖かく湿った舌が、ちろっと耳たぶを舐めた。
「ひっ! なっ……なんで、離して!」
 イヤだ……どうして、こんな事されなきゃならないの?
「おっと。いくら騒いでも、外には聞こえないよ。たっぷり金かけた防音仕様だからさ」
 林田は拳でコツコツと仕切り壁を叩いてみせた。何かの間違いじゃないかとか、さっきの夢の続きかしらとか、頭がグルグルしてうまく働かなかった。強張ったまま体が動かない。
「そういう訳で、感じたらいくらでも声出して大丈夫」
 感じたらって……コイツ、気でも違っちゃったんじゃないだろうか。
「自分が何されようとしてるか、まだわからない?」
 掴まれた両手首を頭上に掲げられて、背中がガツンと収納庫にぶつかった。
 今まで一緒に仕事をしてきて、私は何を見ていたんだろう。林田のこんな顔を、見た事がなかった。すっきりと整った鼻梁、笑みを湛えた薄い唇。澄んだ黒い瞳は、怯えている私を嘲笑っているようにも、この状況を面白がっているようにも見えた。





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