羅漢さん
ねっとりした夢に沈んでいた。
呼吸はできるが息苦しい。薄い膜のようなものに全身が覆われている、と思った。幾度も寝返りを打つ。
遠くに、青く澄んだ空が見えた。ちぎれ雲が浮かんでいる。そこまで行けば、自由になれるような気がした。やみくもにもがいて腕を振り回す。右手の甲が何かに当たった。その痛みで意識が覚醒する。プールの底から浮かび上がる気分で、私は目を覚ました。
秋だというのに、Tシャツが少し汗ばんでいる。細く窓を開けると、どこで咲いているのか、風に乗って金木犀が香った。
足元にCDが一枚落ちていた。腕を振り回した拍子に、机にでもぶつけたのだろうか。勉強机の端に積んであった、ピサの斜塔のようなCDの山が崩れていた。
空色のCDジャケットには見覚えがある。五月の晴れ渡った日に、尚哉から貰ったものだ。あれから五ヶ月が過ぎた。ケースを開くと、手製のメモが挟んである。書き殴ったような文字で、たった一行記されている。
みーなへ もし良かったら僕とつきあってほしい 尚哉
こんなメモが入っているなんて、CDを渡された時には知らなかった。あの時、自分は何と言っただろう。いとも無造作に受け取った自分の態度を思い出し、忘れていた古傷が疼くように、胸がしくりと痛んだ。尚哉の気持ちが受け止められなかった私に、これを持っている資格はない。返しに行くべきではないか。不意に、そう思った。
尚哉と私は、幼稚園の頃からの腐れ縁だ。当時、私たちが住んでいたのは、日当たりの良さだけが取り柄の、2DKのアパートだった。一緒に登園し、帰ってからもどちらかの部屋で、毎日のように遊んでいた。疎遠になったのは、尚哉たち一家が戸建てに引っ越してからだ。小三の時だった。
尚哉たちが引っ越す少し前から、私の父はうちへ帰らなくなった。父の不在を訝しがる私に、しばらくの間、母は曖昧にごまかしていたが、やがて「パパには他のおうちができたのよ」と憎々しげに言うようになった。子どもなりに「愛人」という存在を理解したのは、その頃だ。
高台にある、白い壁とオレンジ色の瓦屋根の新居は、尚哉の母、真行寺のおばさんが手作りするバースデイケーキみたいにきれいだった。おばさんは引っ越した後も、遊びに行った私を歓迎してくれたが、母はそれを快く思っていなかったようだ。
「尚くんと遊んではいけません」というのが、当時の母の口癖だった。私が尚哉の家に遊びに行き帰ってくると、彼女は必ず不機嫌になり、最後には父への不平を並べたて、泣いてしまうのが常だった。友達付き合いと父の不在とは何の関係もないのだから、母の言い分は理不尽に思えたが、二人だけになった家庭に波風を立てないよう、私の足は次第に尚哉の家から遠ざかっていったのだ。
こぎれいな一戸建てに移り住んだ真行寺家と、離婚が成立しても、父からの養育費が滞る我が家。高校生になった今なら、母の気持ちが少しだけわかる。彼女なりの羨望と嫉妬の表れだったのだと。私たちはいまだに、この狭いアパートから抜け出せずにいるのだから。
寝乱れた髪の毛を手早く束ね、羽織ったパーカーのポケットにCDを入れた。秋の澄んだ空気の中、緩やかな坂道を登っていくと、懐かしい家が見えた。
ここに来なかった年数分だけ傷んだ白壁と、古びても手入れが行き届き、光沢を失わない木製ドアが、私を出迎えてくれた。インターフォンを押すと、驚いた表情でおばさんが顔を出した。
「まあ、久しぶりねえ、
水菜ちゃん。すっかりきれいなお嬢さんになって、見違えちゃったわ」
もごもごと無沙汰を詫びる私に、おばさんの眼差しは昔と変わらず穏やかだ。
「ちょうどよかった。さっきケーキを焼いたところなの。キャラメルシフォンよ。いま紅茶をいれましょうね」
嬉しそうに語るおばさんの様子に、CDを返しに来ただけですとは言い出しにくく、諦めてスリッパに足を通した。
掃除の行き届いた廊下と、甘いケーキの香り。何もかも昔と変わらない。タイムスリップしたような錯覚に陥ってしまう。私はまだほんの少女で、向こうの部屋から、おもちゃを抱えた尚哉が早く遊ぼうと呼んでいる。幻のような光景が、一瞬だけ現れて消えた。
生クリームが添えられたシフォンケーキは、口に頬張ると淡雪のように溶ける。香りの良い紅茶を飲みながら、おばさんの話を聞いた。
尚哉と私が幼稚園のお昼寝の時、隣同士じゃないとイヤだと互いに駄々をこねたこと。同じアパートに住んでいた頃、どちらかの家で遊び疲れると、そのまま寝て朝になってしまったことなど、あらためて聞くと、なんとも気恥ずかしい。
ふと首筋をひんやりとした空気が撫でた。窓も玄関も開いていない。不思議に思っていると、
「あら、いま羅漢さんが通ったのね」
おばさんは事もなげに言った。唐突な言葉に、私は面食らう。
「風もないのに空気が流れる感じがするでしょう? この家は、霊の通り道になってるかもしれないわね」
そんな現象に遭って怖くないのだろうか。
「風が流れるだけで、特に実害はないの。小学生の頃だったか、尚哉がそれを『羅漢さんが通った』って呼んでね」
怖さはまったく感じないのよと、おばさんは微笑み、転がるようなソプラノで、懐かしいわらべうたを口ずさんだ。
羅漢さんがそろたら まわそじゃないか よいやさのよいやさ
歌声に呼応するかのように、ドアチャイムが鳴った。回覧板を届けに来た訪問者は、おばさんを話し相手に、なかなか帰る気配がなかった。諦めて食器を片づけに立ち上がる。きれい好きのおばさんらしく、台所は磨きこまれている。
カウンターの上には、さっき食べたキャラメルシフォンの他に、リンゴのタルト。ブラウニーにパウンドケーキ、何種類ものクッキーやマフィンが並んでいた。すぐにでもケーキ屋が開けそうな分量だ。
熟れすぎた果実みたいな匂いが鼻をついた。カウンターの奥にある、薄緑色の抹茶クリームを塗られているように見えたケーキは、近づくと表面がびっしりとカビに覆われていた。唇から小さな悲鳴が漏れる。その隣には、形の崩れた焦げ茶色の物体がある。元はフルーツケーキのようだったが、透明なケーキカバーの内側では、小バエが二匹、もつれあって飛んでいた。
「水菜ちゃん」
呼びかけられてギクリとする。
「話の長い人で困っちゃうわ。あら、見つかっちゃったのね。うふふ、尚哉がね、母さんの作るケーキは世界一だから、たくさん焼いてって言うのよ」
おばさんは毎日、「尚哉」のためにケーキを焼き続けているのだろうか。台所に充満する甘い香り。私は相槌も打てず、呆然と見つめ返す。
不意に、楽しげに語るおばさんの表情から、仮面が剥がれ落ちるように笑顔が消えた。
「ああ、何を言ってるのかしら。尚哉は……もういないのに」
支えを失ったように床にへたりこむ。か細い泣き声が、私の胸を衝いた。
「尚哉は死んだってわかってるはずなのに。水菜ちゃん、あなたが見つけてくれたのよね」
あの日、学校の花壇のそばで倒れていた尚哉を発見したのは、下校しようとしていた友人と私だった。花壇のレンガには赤黒い染みが広がり、腕はありえない方向に曲がっていた。救急車を呼んだが既に事切れていた。校舎三階の庇には上履きで滑ったような痕があり、そこから転落したのではと思われた。事故と自殺の両面で捜査されたが、結論は出なかった。遺書も見つかっていない。
「尚くんに借りていたCDを見つけたんです。今日はそれを返しにきました」
嗚咽がやむのを待って話しかけると、おばさんは泣き笑いの表情になった。
「あの子を思い出してくれてありがとう。尚哉の部屋は、まだそのままにしてあるの。どうかゆっくりしていってね」
二階にある尚哉の部屋は、夕暮れの陽射しを浴びて、フローリングが鈍く光っている。机に積まれた辞書や参考書、ベッド脇に置かれた音楽雑誌。ただいまと言って鞄を置いたら、すぐにいつもの生活が始められそうだった。だが、この部屋に主が帰ってくることはない。使いこまれた勉強机に、私はそっとCDを置いた。
「警察の人は、発作的に自殺をするケースはありますって言ったわ」
わたしにはそう思えないと、おばさんは悲しげに首を振る。
「あの子が夢に出てくるの。母さん、僕は自殺じゃないよって」
図書委員なので、書庫で本の整理をしていました。帰りに吹奏楽部の藤巻さんと出会って、お喋りしながら昇降口を出ました。そこで……見つけたんです。とても驚きました。人が落ちたような音は……わかりません。書庫は本に囲まれているせいか、外の音が届きにくいんです。……いいえ、放課後、真行寺君の姿は見ていません。
学校の先生や警察の人には、そう答えた。泣きながら語る私を見て、疑う人は誰もいなかった。
「亡くなる少し前、あの子は同じCDを二枚買ってきた。みーなに一枚あげたいんだって言ったわ。照れくさそうだったから告白するのかなって思った。尚哉は、ずっとあなたのことが好きだったもの」
おばさんは震える声で言うと、私の肩に手を置いた。
「あなたは、亡くなる前の尚哉と会ったはずよね。何があったの?」
あの日、書庫の整理に飽きた私は、いつもの場所で本を読んでいた。
三階にある書庫の外側には、柵のない陸屋根がある。四畳ほどの空間を、私はこっそりお気に入りの場所にしていた。
朝方まで降っていた雨で、眼下に見える新緑は鮮やかさを増していた。図書室にあるクッションを一個持ちこめば、快適な屋外席の出来上がりだ。
「いいなあ。特等席だね」
急に声をかけられて、とても驚いた。この場所は、誰にも知られていないと思っていたから。私の戸惑いを気にせず、尚哉はCDを差し出した。
「これ、プレゼント。良かったら聴いてみて」
「ふーん、ありがと」
読書を中断されたので、愛想のない返事をした。
高校に入ってから、尚哉と同じクラスになることはなかった。会話をするのも久しぶりだ。
短く刈り上げた髪に、ひょろりとした細い背中。ずいぶん背が伸びたなあと、尚哉の後ろ姿を見て思った。
「何。まだなんか用?」
問われて尚哉は、絞り出すような低い声で言った。
「いつから、君は援助をやっているんだ」
背筋がひやりとする。誰にも知られたくない、触れられたくない部分だった。
「急に何言ってんのよ」
「やめてくれ。みーな、頼むから」
「その名前で呼ばないで。それに私がどんなバイトをしようと、あんたの知ったことじゃないわ」
尚くんでも真行寺君でもなく、あんたと呼んだことに、尚哉は傷ついた様子だった。
「見たんだよ。一ヶ月ぐらい前に、君が男の人とホテルへ入っていくのを」
はじめは恋人だと思った。少し驚いたけど、友達として喜ぶべきことだ。次の週末、駅前の噴水のところで、また君を見たんだ。誰かと待ち合わせしてるみたいだった。現れたのは中年の男性だったよ。前に見たのとは違う人だ。それから気になって……悪いけど、君のこと尾行させてもらった。
苦い薬を飲み下すみたいな顔で、尚哉は一気に喋った。シャツの下をイヤな汗が伝う。
「ストーカーみたいなことしないで。ほっといてよ」
「僕は知っていることをすべて、永井先生に話すつもりだ」
顔から血の気が引いた。いま担任の永井にチクられたら、太鼓判を押されている学校推薦がフイになる。
卒業後は、進学したいと考えていたが、我が家の経済状態では厳しかった。貯えなど無きに等しい。在学中から資金を貯めようと思った。もちろん普通のバイトもした。援助に手を染めたのは、単に効率が良かったからだ。
私の処女は五万で売れた。もう名前も覚えていない男との行為に、何の感傷も湧かなかった。服を脱ぎシャワーを浴びて、男の体液を受け止める。その繰り返しだ。引き攣るような体の痛みには、やがて慣れた。心が麻痺しているのかもしれない。
私を激昂させたのは、立ち去ろうとした尚哉の、憐れみに満ちた視線だった。何不自由なく暮らす彼に、私の気持ちがわかるはずもない。
「待ちなさいよ」
学校にバラされるのだけは、止めたかった。ただ夢中で、尚哉の体にむしゃぶりついた。揉み合いながら、コンクリートの床に倒れた。後頭部を打ったらしく、私には数分間の記憶がない。目を開けると、澄みきった青空が見えた。雲がゆっくりと動いている。おそるおそる下を覗き、動かなくなった尚哉を見つけたのだ。唇を噛んで悲鳴を堪えた。
こんなはずじゃなかった。どうしよう、どうしたらいい。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
誰か人を……救急車を呼ばなくちゃ。でも、なんて説明したらいいだろう。私が尚哉を突き飛ばしたのかもしれないのに。
震える手で制服のホコリを払い、クッションと本、CDを抱えて、片開きの窓に体を押しこんだ。書庫に戻ってからも動悸は鎮まらなかった。そこから先は、警察の人に話した通りだ。あの日見た空が、網膜に焼きついて離れない。責めるように、毎夜夢に出てくるのだ。
「お願い、本当のことを教えて」
振り向くと、おばさんの手に鈍く光るモノが握られていた。喉がひりついて言葉が出ない。あの包丁が、体にめりこんだら痛いだろうか。背中に当たる切っ先を感じながら、瞼を閉じた。
不思議なことが起こったのは、その時だ。
窓も開いていないのに、風が舞った。柔らかく温かい風だ。つむじ風のように首筋にまとわりついた。
「尚哉なの?」
おばさんが甲高い声で叫ぶ。風が、そよと頬を撫でた。
「わたしったら……何てことを……」
ゴトリと音がして、おばさんは包丁を取り落とす。床にうずくまったまま、尚哉、尚哉と呟き続けていた。風は薄い膜のようになって、私の体を覆っている。人肌の温もりに包まれ、私は風の囁きを聞いた。
みーな、みーな、思い出して
ヒトゴロシの私に、何を思い出せと言うのか。脳裏にあの日の青空が浮かんだ。ぐるりと景色が回る。記憶の中で誰かが叫んでいる。
「みーな、危ないっ!」
コンクリートの床に倒れた時、誰かの手が私を守ってくれた。
あのね、おひるねすると、こわいゆめをみるの。みーな、ねむれない。
じゃあ、ぼくのとなりにおいで。てをつないであげる。
うん。みーな、なおくんとてをつないだら、こわくないよ。わるいひとがゆめにでてきたら、なおくん、やっつけてね。
だいじょうぶ、ずっといっしょにいるよ。
卑怯者の私を、最後まで守ってくれたのは、尚哉だった。こんな、こんな私のために。胸の奥から熱い奔流が突き上げる。
失った記憶の断片を取り戻すと、風は嘘のように止んでいた。
おばさんは床に座りこみ、小さな声でわらべうたを歌っていた。遠くを見つめ、穏やかに微笑んでいる。
羅漢さんがそろたら まわそじゃないか よいやさのよいやさ
私は話さなければならない。本当のことを。
「おばさん、あのね……」
Fin.
『覆面小説家になろう2008秋』 「空ブロック」参加作品
08.12.25 加筆しました