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 涙をふいて 顔をあげて



「ご心配なことがありましたら、いつでもご連絡ください。ありがとうございました」
 最敬礼して本日最後のお客様を送り出した。
 姿が見えなくなるまで見送って、コキコキと首を動かす。ふぅ。だいぶ疲れてるみたい。やるせない気分なのは、仕事のせいばかりじゃないけど。
 二十代半ば、仕事もそれなり楽しくて、同僚もいい奴ばかりで友達にも恵まれてる。恋人いないのがちょっと寂しい。それが今のわたし。
 そして――


 無人のオフィスを黙々と片付け、照明を落とし鍵をかける。持ち帰り仕事の入った大きなバッグが、肩に重い。帰っても誰が待ってる訳じゃないけど、今夜はオフィスにひとりでいたくない気分だから。ヒールの音を響かせて、大通りに出るために駐車場を横切る。
 と、駐車している車の陰から見慣れた顔が出迎えた。
「いま帰り? ついでだから送るよ」
「あれ……樫村。出かけたんじゃなかったの?」
「ややこしい場所で、地図見てたら、な。どうせ早い時間じゃ会えない客だし」
 嘘ばっかり。樫村がオフィスを出たのは、一時間以上も前。わたしと二人きりになるのを避けてるんだと思ってた。
「ほら、乗れ」
「うん」
 今日はいつもより一段とぶっきらぼう。軽い調子で『メシでも食いに行こう』とか、もう言ってくれないんだね。乗り慣れた車の助手席に滑りこむ。煙草の残り香、車の中に染みついた樫村の匂い。この席に座れるのも、あと少しの時間しかない。今夜が最後かもしれないな。もうすぐこの場所は、彼女の指定席になるもんね。
 樫村はエンジンをかける手を止めて、窓をあけ煙草に火をつけた。鼻につくオイルライターの匂い。はじめはこれ、嫌いだった。でも今は好き。
「あの、さ……」
 ふふ。口ごもるなんて珍しい。それほど照れくさいんだね。大丈夫だよ。わたし知ってるから。でも、できれば樫村の口から聞きたいな。その話をするために、ここで待っててくれたんだよね。
「俺、結婚するんだ。佳奈子と」


 ――そしてわたしは、いま隣に座っている男に失恋した。


「おめでとう……」
 何度も練習したんだ。にっこり笑顔でお祝いの言葉をいおうって。正面向いて固まった首をロボットみたいに九十度向きを変えて。語尾は震えなかったかな。ちゃんと笑顔に見えてるかな。
「そんな顔……するなよ。もう、決めたことだから」
 どうやら失敗したらしい。でもからかいの言葉まで考えてあるんだ。用意周到でしょ。
「ねぇ、知ってた? 佳奈子はずっと前から樫村のこと、好きだったんだよ」
「そっか」
 素っ気ない答え。もっと喜ぶかと思ってた。おめでたい話をしてるのに、空気が重いのはなぜかなあ。
「俺さ……水谷を口説いても、ぜったい落ちないと思ってた」
 水谷ってわたしのこと。そんな計算されてたなんて、意外だね。樫村は同僚で友達で飲み仲間。それ以上でもそれ以下でもなくて。だから……。
「……式には呼ぶからさ」
 うん、と返事をしようとして、唇から言葉が出なかった。頷くだけ。首を縦に振って下を向いたまま、樫村の顔をまともに見られない。まずいな。自分でも予定外のリアクション。
「水谷?」
 ずっと前を向いてた樫村が、こちらを振り向く気配。目の前にあるシフトレバーが揺れている。その上にポタポタと何かが落ちた。
「どうし……て……」
 わたし何しゃべってんだろ。それ以上、言っちゃいけない。
「佳奈子なの? わたし……じゃ、なくて」
 樫村の手がわたしの背中に当たった。抱きしめようとして手を止めたみたいに、暖かい手の平がそっと触れる。さすがだね。そういう筋を通してこらえるとこ、男らしくて好きだよ。
「もう遅いんだ。今さらそんなこと……言うなよ」
 いまどんな顔してる? 知りたくて、顔をあげた。車に乗ってからまともに樫村を見たの、はじめてだ。
 見上げた顔は何かいいたげで、そのくせ唇から言葉が出なくって、とても苦しそうだった。


「ごめん……」
 謝らないで。いつもみたいに、冗談で返してくれないんだ。後からあとから零れるもので、樫村の顔が歪んで見える。変なこといって、こっちこそごめんね。そう言おうとして、違うセリフが出た。
「キス……して……」
 想定した台本から、どんどんズレて行ってるなあ。役者なら失格だ。
「こんなお願い、二度としないから……いまだけ」
 アドリブばっかり。台本以外ならスラスラ言えるんだ。背中にまわった樫村の指が、わたしの着ているジャケットの生地に食いこんでは離れる。それを繰り返す。
「馬鹿野郎!」
 怒ったように低く唸って、腕の中にわたしを抱きとった。あったかい。こんなに暖かいんだ、樫村の胸。佳奈子が……羨ましいよ。ドクドクと心臓の鼓動が聞こえる。据え膳食わぬは何とかって奴、忘れちゃったの? よくそういって笑ってたじゃない。
「なんで今ごろ、そんなこと言うんだよ。なんで……」
 ほんとにね。自分でもそう思う。いつも一緒に遊んでて、それが当たり前だと思ってた。終わりがくるなんて想像もできなかった。
 意気地のない男の代わりに、わたしから唇を啄ばむ。驚いた顔してる。今夜だけ、ふたりで佳奈子を裏切ろうって誘ってるんだ。わかる?
「どうなっても……知らないからな」
 脅しめいたセリフをいうときは、もっとカッコよく決めなきゃ。重ねた唇が震えてるよ。
 樫村の首筋に腕を絡めた。両手がわたしの頬を挟んで、ぬめった舌が唇の中に這いすすむ。それだけで溶けそう。キス、上手いんだ。よく前カノとのエッチとか、話してくれたよね。俺、けっこうテクニシャンなんだぜってさ。
「んっ、んっ、はふぅ」
 離した唇から唾液が細い糸をひいた。溶けてしまって口がきけないから、目だけで「いいよ」って答えた。伝わったかな。たぶんこれが樫村との最初で最後。でもホントは、九回ウラツーアウト逆転ホームランなんか、狙ってたりするんだけど。


 それがわたしの本音。どんなに夜中に泣いても、隠しきれない醜い気持ち。樫村を奪いとりたい。できることなら。


 三日前、他の同僚から大ニュース! って電話があった。夏休みで帰省してる間に、樫村が佳奈子と結婚を決めたって。
『へぇー、そうなんだ。びっくり!』
 衝撃は電話を切ったあと、襲ってきた。ひとよりちょっと鈍いみたい。組み合わせがなんだかおかしいような……。樫村と佳奈子。なんで? その瞬間、わたしは樫村が好きだったことに気づいた。鈍いにもほどがあるよね。失恋と得恋が一緒だもの。


 キスが終わったら、わたしをシートに押し戻した。黙ってエンジンをかける。このまま家に送り届けられちゃうのかと思って、シュンとして捨て猫みたいに小さくなっていた。
 無言の夜のドライブが続く。しばらくするとネオンの灯りが煌めく場所にいた。
「戻るなら、今だぞ」
 首を横に振ってにっこり笑った。今夜最高の笑顔だったかも。シートベルトをはずして先に外へ出る。すたすたとラブホテルの階段を下る。こんな場所、慣れてるふりをした方がいい。こういう奴だから、一度くらいかまわないだろうって思わせたほうが。
「どこまで行くんだよ、おい」
 自動ドアを過ぎて、ふわふわした絨毯をだいぶ歩いたところで、樫村が声をかける。
「部屋……選ばないと」
「ん……まかせる」


 焦った。気づかれたかと思った。シャワーを使うといって洗面所でひとりになって、大きく息を吐いた。まだ知られちゃいけない。樫村とエロトークまでしてるわたしが、処女だなんて。ラブホテルも もちろん、はじめて。



 こうやって待ってるのも所在ない。入れ替わりで樫村がシャワーを使ってる間、ショーツにバスロープを羽織っただけの姿で、大きなベッドの端っこに座ってる。緊張しないといったら嘘になる。悲しそうな佳奈子の顔が、ぼんやりと頭の隅に浮かんだ。
 ごめんね。でも後戻りはできないんだ。


 ドアの開閉する音がして、人影が近づいてくる。部屋に入ってから、ふたりともずっと言葉すくなだ。隣に座ったのに顔があげられないよ。樫村は小さな溜息をついてから、俯いているわたしの顎に指をかけた。頬に軽くキス。
「前にさ、飲み会で水谷が胸元の開いたワンピース、着てきた事があったろ? あのときの俺、かなりヤバかった。我慢するのに必死」
 我慢しなけりゃ良かったのに。そうしたら結末が変わってた。分岐してストーリーが選べる小説みたいに。
 樫村の唇と舌が、頬を耳をくすぐる。手の平は鎖骨から首筋を丁寧になぞっていく。わたしは目を閉じているので精一杯。ううん。目をつむっているから、新しい涙がこぼれずに済む。
 バスロープの襟元が両手で開かれて、乳房がまろびでる。ツンと尖っている先端のしこりに唇が吸いつき、背中がのけぞる。
「あ……ふぅっ……」
 気持ち、よかった。そのまま後ろに倒れこむ。かさなりあった身体の重み。日焼けした肌の暖かさ。太腿のあたりに感じる、押しつけられ脈打っている熱いモノ。これが最後でも、わたしはきっと忘れない。
 薄明かりの中でロープの帯が解かれ、小さな布切れ一枚残した裸身を晒した。恥ずかしさで身体中が微熱状態。火照ってくるのがわかる。両腕で胸を隠そうとしたけど、やんわりと手首を押さえつけられた。皮膚にちりちり刺さる視線がむず痒い。わたしは足をぎゅっと閉じて無駄な抵抗をしてみる。
「俺だって……水谷に負けないくらい緊張してる」
 唇で肩のラインをなぞって、そんなことをいう。そうだね。やっとリラックスして、微笑んで樫村を見つめる。でも少しの間だけ。肌の上を滑り降りてくる舌に、すぐ我を忘れてしまったから。


 まるい膨らみの先端をつつく舌、脇の下を舐める舌。大きな手が、皮膚を揺すり掴んで揉みほぐす。樫村が触れると、くすぐったいところも恥ずかしいところも、順番に温度が変わっていく。吸われた胸の尖りが熱をもって、肌のところどころに濃いサーモンピンクの跡を残す。
「ふぁっ……ん……くぅん……」
「水谷、感じやすすぎ」
「だって……いい…………んっ!」
 樫村の髪を撫でて犬みたいに鳴いた。体が突っぱっては緩む。恥ずかしさが喜びに塗り替えられる不思議さ。夢中になったわたしは、ショーツに指が掛かったのに、気づかなかった。
「ひゃっ」
 引きずり下ろされ、膝の手前で丸まってる。涼しくなった茂みを撫でられて、再び頬に血がのぼる。動揺しないで落ち着かなきゃ。樫村にされるなら本望なんだから。
 するすると布の塊が抜かれて、膝が開いていく。ワレメを二・三度 指がなぞると、襞がめくられた。指が進んでくる……と思って、固く目を閉じる。どうかはじめてだとバレませんように。知ったらきっと途中でやめると思う。前にいってた。『処女は重い』って。
「あっ」
 うそ。吹きかけられた息に、体がびくんと反応した。足を閉じようとすると、樫村の頭を抱えこんでしまう。膝を曲げられた姿勢に恥ずかしさが募る。
「やっ、やぁ……」
「もうとまんないよ」
 足の間から聞こえるくぐもった声は、いつもの樫村じゃなかった。発情した獣のよう。
 左右の襞を舌が往復し、震えるような快感を伝える。濡れたものを吸いとられているのか、それとも唾液を新たに塗られているのか、どちらだか分からなくなるほど、わたしのそこはぐちゃぐちゃになっていった。仔猫がミルクを舐めるような音が響く。樫村の名を何度も叫んだような気がする。それでも一番感じやすいところに、舌は届かない。
「はっ……ん、あぁっ!」
 舌が移動して、ぷっくり膨れあがった芽のそばを通る。息が苦しい。体の奥がむずむずする。

 え……?

 急に顔が離れたので、わたしは瞼をひらく。樫村の瞳がこちらを見ていた。
「もっと舐めてほしい?」
 濡れた襞に、空気が流れてひやりとする。心の中を読まれたようで、顔が赤くなる。
「それともいれたい?」
 固いものが雫をこぼした入り口にあてられて、ぬるぬると上下に滑る。最初の接近遭遇。そんな選択肢、答えられないよ。
「いじめて困らせると……すっごく可愛い顔するから」
「そんなっ……ん……はっ……あぁぁ……」
 いつものわたしは何処へ行っちゃったんだろう。樫村と一緒に飲んでふざけあっていたわたしは。その指に、舌に、唇に、そこから紡がれる言葉に、翻弄されている。それが嬉しい。溺れていけば、頭の片隅にある誰かの影が薄まっていくから。消えることはないけれど、少しの間だけ忘れていたいと思う。ずるい、わたし。
 水音を奏でて指が入り口に沈み、深く抉った。荒く息をついて喘ぐ声が、冬に聞こえる猫の鳴き声みたい。自分のものなのに甘ったるくて、さかった声。
 長い指がわたしの感じる部分を探り当てる。どうして分かるんだろ。深いところも、真ん中も、入り口も、別の強さで弄られておかしくなっていく。
 丸い指は強すぎず弱すぎず、くるくると滑らかに花芽を撫でるから、ちょうどいい気持ちよさに浸っていられる。唇に吸いとられた胸の尖りは、舌先で転がされて新たな疼きを呼ぶ。
 やっぱり巧いね。自称テクニシャンの称号は伊達じゃないや。好きな男に抱かれているという欲目を差し引いても、泣きたいくらい気持ちよかった。
「すごい……後ろのほうまでびしょびしょだ……」
 とろとろと窄まりに向かって流れていく露を、指が掬う。
「やっ、やぁっ。見ないでぇ……」
 樫村の目には、どんな風にわたしが映っているのだろう。恥ずかしさが噴きだして、全身が震える。顔を隠そうとした腕が払いのけられ、手のひらが頬を包んだ。
「あぁん……あぁ……ん、んむっ」
 下の口で抉る指を締めつけて、唇に触れた指を縋るもののようにしゃぶる。塞いでいないと、とんでもないことを叫んでしまいそうで、怖かった。



 たくさんの光が爆ぜて、やっと普通に息ができるようになった。ああ、いま、指でイカされてしまったんだと気づいたのは、しばらく経ってからだ。
 呆けたように目を開けると、樫村は枕元でガサゴソと何かを探している。薄い袋を取り上げるのを見て、そうかと思った。これからわたしの中に入ってくるんだなあって。
「あの……大丈夫だから。今日、要らない……」
 だってこれで最後かもしれないのに、ゴム越しで触れあうなんて悲しすぎるよね。
 真上にいる男は、珍しく難しい顔をしている。頭の中にいくつかの問いが生まれたのかもしれない。
 例えば、恋人以外の女性とセックスするのに、コンドームを付けないのは不誠実かどうか、とか。もしそうなら、答えは簡単だ。どちらも同じ裏切りである。
 本当はぜんぜん違うことを考えていたりして。
 袋を元通りの位置に直すと、心が決まったように小さく息を吐いて、キスをひとつくれた。唇にそっと触れるだけの軽いキスだったけど、樫村からされたキスはこれが初めてだったから、ひどく嬉しかった。
 先程と同じように、固いものが入り口に当たって滑る。さっきは嬲るために、今は貫くために。閉じた唇の中で、奥歯を噛みしめた。
 押しつけられる圧力。ぬめった襞の中に、先端がめりこんでいく。これなら痛みもなく受け容れられるのではないかと、少し安心する。でも甘かった。
 入り口がひきつり、限界まで押し広げられる。覚悟していたのに、この瞬間を待ち望んでいたのに、樫村を、男という存在を怖いと思った。めきめきと体が軋む。
「きついな……肩の力、抜いて……」
「ん……」
 わかってる。わかってるんだけど思い通りにならなくて。どのぐらいの大きさなのか、ちゃんと確かめておけば良かった。そんな余裕なかったんだ。
 進んでくる腰に体が逃げる。何度か繰り返して、
「水谷……お前……」
 わたしがはじめてだと、気づく。さすがに知られずに済ますのは無理か。驚いた顔してる。
「やめちゃ、だめ!」



 腕を絡め足を添わせて、ありったけの気持ちで懇願する。美味しいお店に連れてけとか、遊びに行こうとか、いままで何度も我儘いったけど、もう一個だけ。
 樫村が自分の唇を指で撫でている。悩んでいるときの癖だ。前に二度みたことがある。前カノと別れ話が出たときと、違う部署に転勤の話がきたとき。
「ごめん……」
「なんで俺なんだよ。他にもイイ男、いっぱいいるじゃないか」
 声が怒ってる。当然だね。
「いないよ」
 即答。ステキなひとはいっぱいいても、樫村みたいにずっと一緒に歩きたいと思える人は、どこにもいないんだ。
「この……あほ……」 
 うん。自分でもそう思う。
 憮然として、わたしの頭の下から枕を抜いた。それを腰の下に入れて、バスタオルを敷く。
「すこし、我慢、しろ」
「うん……」
 苦渋に満ちた顔だった。これから起こるわたしの体の痛みよりも、樫村の心の痛みのほうが大きいかもしれない。
 迎えいれる場所を大きく開かれて、これ以上、逃げないように肩をしっかり掴まれて、体の一部がわたしの中に沈む。
「く……くふぅ……」
「痛いか?」
「ん……すこし、だけ……」
 うそ。ほんとはジンジンする。今すぐここから逃げ出したいくらい。
「もうちょっとだ」
 楔が打ちこまれ、樫村の体が進んでとまった。



 指先がゆっくり髪の毛を梳いている。肩を掴まれた力が弱まったので、奥まで埋められたらしいと感じる。足らないところと余ったところが、やっとひとつになった。イザナギとイザナミは国生みの神話を残したけど、わたしたちが繋がっても、たぶん何も生まない。
「そろそろ動いて……いいか」
 こうやって労わってくれる人がいる。幸せで嬉しくて泣ける。だから微笑む。
 律動にあわせて、一時的に麻痺していた痛みが蘇る。ひきつりこすれる入り口は絶え間なく痺れて、早く終わらせてと悲鳴をあげている。なのに、終わりの時間が来るのが、一刻でも遅くなればいいと願った。
「う……水谷っ……」
 切ない声に体が熱くなって、繋がった場所から雫がこぼれる。動きが滑らかになる。水谷じゃなく、わたしだけの名前で呼んでほしかった。直子って。でも口には出せない。
 ひときわ深く穿たれて、大きく喘いだ。動きがとまったので、ふたりきりの時間が終わってしまったんだと分かった。
「ありがとう」
 そういうと、小さな子にするように頭をくしゃくしゃと撫でて、樫村の体が離れていった。



 始まりと同じように、交代でシャワーを使う。
「お祝い、なにがいい? こんど佳奈子に聞いといて」
「あぁ……」
 逆転ホームランなんて打てっこない。最初からわかってた。佳奈子がどんなに芯が強くて素敵な女性か、わたしはよく知ってるもの。
「少し疲れちゃった。ひとねむりするから、先に帰っていいよ」
「眠るまで、ここで見ててやる」
「うん……」
 心遣いに感謝して、布団をかぶった。起きていたら、また縋ってしまいそうだ。
 興奮して、よくわからない感情が浮かんでは消えた。嗅ぎなれた煙草の香りを吸いこみ、眠りについた。





 昨日とおんなじ朝がきた。
 ひとりきりで目覚める。シャワーを浴び服を着て、外へ出る。
 横たわっても歩いても、ゆうべ満たされていた場所が、寂しくてたまらないと哭く。ぽっかりあいて、埋まらない。

 俯いた顔をあげて歩こう。街の景色が滲んでみえる。朝陽が眩しいから。



――― fin.




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