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 片恋



先生……とお呼びしたら きっとあなたはお叱りになるでしょう
君とは師弟の関係でもないし 何かを教えたこともない
年が離れていても友達なのだから ちゃんと名前で呼びなさいと
そうおっしゃるに違いありません

でもわたくしには あなたのお名前を口の端に上せることすら
とても 気恥ずかしいのです

だから他の方にならって 先生と呼ばせていただきます
心の中でだけですから どうかお許しください



先生とわたくしとは いくつ年が離れているのでしょう
親子よりはほんの少し近いのでしょうか
そんな年上の方を“おとこのひと”として見るようになるなんて
あの頃は想像もつきませんでした



初めてお会いしてから どれくらい時が経ちましたか
すぐには数字がいえないほど それくらい遠い昔になりました
言葉すくなにいつもの席に腰かけて
黙ってグラスを口にする先生のお姿が見えない日は
とても寂しく感じたものです

物静かだと思っていたのに 実はとても人見知りなさるたちで
こんな小娘のつまらない質問にも
笑顔で答えてくださると知ったときは
飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています

その穏やかな物腰のかげに
ときに熱弁をふるってしまう激しい部分を拝見したときは
驚くと同時に 眩しい想いがいたしました



いいえ
どうせ出せない手紙なのですから はっきり申しましょう

駄々をこねる子供のような先生が とても
とても好ましかったのです

それに気づいた日から 先生のお姿があの場所にあるときは
声が聞こえて笑顔が見える席が わたくしの指定席になりました
酔ったあげくの小さな呟きすら 聞き漏らさないように
耳を澄ませていたのです



先生もご存知のように あれからわたくしは家庭を持ち
夫や子供に囲まれて つつがなく暮らしています

なのにどうしてでしょう
あの日のことが思い出されてしょうがないのです

ずいぶん前に
ばったり先生と お目にかかった事がありましたね
そう あの日のことです

乳母車を押し 所用で立ち寄ったどこかのロビー
そのずっと奥に 先生は立っておられました
先生とわたくし どちらが先に気づいたか
ほぼ同時だったでしょうか

とても遠くにおられるのに 人のざわめきも飛び越えて
お顔が近くに見えました

先生の「あっ……」というびっくりした表情を
忘れることができません

そのときはじめて わたくしにとって先生が
大事な “おとこのひと” であったと 気づきました
のんびり屋にもほどがあると お思いになりませんか

それから言葉もかわさずに 黙って会釈をして
遠くにお姿を見ただけで わたくしは帰ったのでした

今でもときどき考えます
あの日 わたくしの手の中に
赤ん坊が眠っている乳母車がなくて
たったひとりで歩いていたら どうしていたでしょう



駆けよって 先生の腕にすがって
甘えることができたでしょうか

あれから なんど考えても
わたくしには その答えが見つからないのです





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