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 座席に落ち着いて数分足らずで、滑るように私の五年間は遠ざかっていった。

 そこには磁力でもあるかのように思っていた。私はその人知の及ばない力から逃れることなく、きっとこの地で一生を終えるのだと、諦めの中で静かに悟っていた。それが、私に与えられた人生なのだと。
 しかし今、あっけないほど簡単に、見知った風景は私から離れていく。何かを感じる暇さえないほどの速度で。
 本当は、磁力など無かったのだ。それは私の心弱さが創り出す、幻だった。
 めまぐるしく変わる窓の外の風景から、膝の上にひらいた小さなアドレス帳に目を落とした。
 幾度このページをひらいただろう。まだ真新しさの残るアドレス帳。Yの一ページだけが、私の指痕で年輪を重ねている。そこにたったひとつだけ書き込まれ た、彼の電話番号。この二年の間、見つめるだけで一度もかけることのなかった番号。もう見ずとも空で言えるほどになってしまったその番号を、愛おしく指で 辿った。あの夜、薄闇の中で彼の鎖骨を指で辿ったように、そっと。
 月並みだけれど、彼とのあの一夜がなかったら、今日の私はなかった。
 目を閉じるだけで昨日のことのように思い出せる記憶の束を、私は今も胸の奥でしっかりと抱きしめている。












しあわせの花

by sanagi










 地味で、平凡で、退屈な女。
 そんな形容が、私にはぴったりと当てはまる。それは昔も、一歩を踏み出した今も変わることがない。誰もを惹きつける華やかさはないが、かといって嫌悪を 与えるほど陰気でもない。気の利いた話は出来ないが、かといって驚くほど無口なわけでもない。ごくごく普通の、どこにでもいるような目立たない女。そんな 女には当然華やかな人生など用意されているわけはなく、浮いた話もなく、私は二十五才で見合い結婚をした。
 私には父がない。私が中学生の頃、事故で亡くなってしまったのだ。家族は母と私の二人きりになってしまった。一家の大黒柱を失ってしまった私たちは、いつもどこか不安で、寄り添うようにそれからを生きた。
 早く頼りになる人を見つけて―――。
 口癖のように言う母こそが、誰よりも不安に苛まれていたのだろう。
 早く母を安心させてあげたい。孫の顔も見せてあげたい。それがきっと母の生き甲斐になる。
 しかし異性に対して消極的な私には自分で恋人を見つけることなど出来ず、また、稀に好意を示されても母の言うような頼りになる男性とは言い難い相手であったりして、私はその見合いまで色恋沙汰と無縁の人生を送っていた。

 嫁ぐにあたって、私には一つだけ希望していることがあった。
 同居までは出来なくとも、母の傍で暮らせること。
 親戚はいるものの、母の老後の世話が出来るのは私しかいない。そして、私自身心から、一生母の傍にいてあげたいと思っていた。母の苦労に報いたかったのだ。
 そうして紹介された見合い相手―――桧山は、七つ年上の会社員だった。当時勤めていた会社の上司の、遠縁ということだった。

 桧山の第一印象は、すこぶる良かった。明るく快活な話し方。豪快な笑顔。異性と話すときはいつも萎縮してしまう私だったが、見合いというただでさえも緊 張する席だというのに、桧山の巧みなリードで驚くほど気負わずに時を過ごすことが出来た。学生時代に柔道をやっていたというその身体はがっしりしていて、 家庭に入ったらまさに大黒柱といえるだろう頼もしさがあった。
 私はこれまでの人生で、好みの異性像について、考えたことがなかった。また、自分と合うのはどんな男性であるかも、わからなかった。しかしその後数回の デートを重ねるうち、確実に桧山に惹かれていく自分がいるのを感じた。この人となら幸せになれるかもしれない。母もきっと喜んでくれるだろう。桧山と結婚 したいという気持ちが、ごく自然に湧き上がっていった。
 
 しかし願ってもない出会いに感謝する一方で、この幸運があまりにも出来すぎているような気がして、不安だった。目立つほど見目良いわけではない桧山だっ たが、その明るさや男らしさがあれば、見合いなどしなくても充分結婚相手を見つけられるだろうにと思った。なにも私のようなつまらない女と一生を共にする ことはない、一体この人は私の何が良くて結婚したいと思ったのだろう。異性から見た私に、格別な魅力など有りはしないのに。私はこれまでの経験からそう信 じていた。
 先方から正式な申し込みを貰い、迷いながらも桧山に尋ねた。その答えを聞かなければ、心から安心して結婚は出来ないと思った。
「いい奥さんになってくれそうだからだよ」
 怖々答えを求める私に、桧山は迷いない眼差しで告げた。そして、初めて会ったときから私を魅了していた自信に満ちた笑顔で、こう言ったのだ。
「二人で幸せな家庭を作ろう」




 あの時微かに感じていた不安。それに私が忠実であれば、こんな事にはならなかっただろう。
 薬指に一筋残る、指輪の痕を見つめた。いずれ日に焼けて、消えていくだろう痕。早くに結婚して落ち着くどころか、三十も超えてから独り身になり、母にまた心労をかけることになってしまった。
 しかし、と、私はまた彼の電話番号をなぞる。
 桧山と結婚していなければ彼との出会いはなく、私の人生が花で彩られることもなかった。そして本当の幸せが何であるかも、知らずに生きていっただろう。
 これからも決してかけることのない、彼と繋がる数字の羅列を見つめながら思う。あの日咲いた花こそが、私の幸せだ。たとえ一度きりでも、色褪せることはない思い出だから。




 挙式の日取りも決まり、全てが順調に思えたが、ひとつの大きな誤算が私たちに降りかかった。
 桧山に人事異動の令が下ったのだ。
 彼は、さほど大きくはないが、全国に支社を持つ会社に勤めていた。転勤先は東京本社。つまりは栄転であった。
 断ることも出来るけれど、このチャンスは男としてどうしても逃したくない。しかし、君との結婚も諦めたくない。
 桧山は誠実に、そして力強く母と私に語った。私の心は千々に乱れた。私も結婚するならば桧山以外の男性では嫌だとまで思うようになっていたが、それは母 と遠く離れて暮らすことを意味する。桧山という伴侶を取るか、母を取るかで大いに揺れた。生まれ育った地を離れて、都会暮らしをすることの不安もあった。
 しかし、思い悩む私に母はこう言った。
「瑞枝、あんなに頼り甲斐のある男の人は中々いないよ。新幹線を使えば東京なんてすぐよ。私のことは気にしないで、ついて行きなさい。自分の幸せを考えなさい。瑞枝の幸せこそが、私の幸せなんだから」

 母の言葉に後押しされ、私は住み慣れた地を離れ、桧山と東京へ発った。慎ましいながらも多くの祝福に囲まれた挙式を済ませ、私たちの結婚生活は順調に始まった。
 ―――かのように、見えた。
 ひずみは、挙式の夜からすでに出来はじめていた。
 新婚初夜。私にとっては文字通り、異性と共に過ごす初めての夜だった。

「肩の力を抜いて。力まないで」
 桧山にどれだけ言われても、額からは脂汗がしたたり、痛みの余り身体には力が入る一方だった。
「くそっ……入らないな……」
 何度も私をこじ開けようとする桧山を、恐ろしく思った。骨があるわけではないことくらいは知っている。しかし粘膜を突き破ろうとする彼のペニスは、無機 質な何かを思わせるほどの硬さであった。そう、骨どころか、人間の一部であることすら疑わしいほどに。それを私に突き刺そうとする桧山は、愛する夫などで はなく、人ですらなく、心を持たない怪物に思えた。
 痛いと訴えるどころか呻くことすら出来ずに、身が裂かれていこうとする苦痛に耐えた。耐え続けた。これに耐えなければ母に孫の顔を見せてやることは出来 ない。桧山とも、完全な夫婦になったとはいえない。豆電球の微かな明かりを瞼に感じながら、股間を大きく広げた恥ずかしくも滑稽な姿を保った。ひたすら歯 を食いしばり、肉体的にも精神的にも大きな苦痛を耐えた。
「だめだ……今日は諦めよう」
 拷問にも思える長い時間のあと、苛立った声で桧山が言った。これほどまでに不機嫌な彼の声を聞くのは初めてのことだった。申し訳なさと同時に、寒気がするほどの恐ろしさを覚えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 泣きたくなったが、泣けなかった。なにもかもが初めてのことで、私は動転していた。今思えば泣けなかった理由は、それだけではなかったのだけれど。
「いや……君は初めてだし、仕方がない。謝ることはないよ」
 字面だけ並べれば優しくも思える台詞だが、明らかに彼は私を責めていた。良品だと信じて購入した物が、実は欠陥品であったと知った消費者。この時の桧山はまさしくそれだった。
 こちらを見ようともしない桧山に、私は謝り続けた。私が悪い。夫を受け入れられない私は、女としてどこかおかしい。謝る声が不安でか細く震えた。
「ゆっくりやればいい……。今日からはずっと一緒なんだから」
 何度謝ったあとだったか。ようやく、許してくれたと感じることの出来る声音だった。しかし許されても責められた事への衝撃は大きく、その晩は眠れずに朝まで過ごした。これが桧山を結婚前と別人のように感じた、最初の瞬間だった。

 一度貼られた不良品のレッテルは、その後も剥がされることはなかった。
「濡れないな……」
 無骨な指が、敏感な粘膜を擦る。ひりつくような痛みに、私は無言で耐え続けた。桧山との性交は、常に痛みとの闘いだった。
 合わせ目の中に潜り込んだ指が、激しく上下する。そこに少しの潤いはあったが、指をまんべんなく濡らすにはほど遠い量で、中を、とりわけクリトリスを擦 られると、飛び上がりたいくらいの痛みが走った。奥歯を強く噛みしめすぎているせいか、顎までもがじんわりと痛んだ。辛くてたまらなかった。
 なぜこんなことをしなければ、夫婦といえないのだろう。子供を望めないのだろう。これがどうして愛の行為といえるだろうか。愛しまれているなどと少しも思えない。私にとっては苦行でしかない。
 私は欠陥品。やはり、価値のない女であった。営みが不完全に終わる度に、桧山に土下座でもしたい心地だった。繰り返し謝ったあとに優しい言葉をかけてくれたのは最初の数回だけで、やがて彼は私に背を向けて眠るようになった。
 夜が訪れるのが恐ろしくてたまらなくなった。日が落ちていくのを見ると、また今日も地獄のような時間を耐えるのだと身震いした。
 母には勿論、友人にも相談することは出来なかった。同級生には奔放な恋愛を謳歌している女性もいたが、私の友人はみな慎ましく、恋人や夫との性生活をあけすけに語る者はいなかった。そして何より、新天地東京には、私の味方など誰一人いなかった。





 だから、私はあの夜まで知らずにいたのだ。桧山がどんなに自分勝手で乱暴なセックスをしていたかなど。桧山が私に与える刺激は愛撫とはいえず、暴力だっ たなどと。そして私は欠陥品などではなく、正常だった。むしろ、呆れるほど、女だった。彼の手によってそれに気付けた。彼が、私の呪縛を解いてくれたの だ。




 桧山と完全な夫婦になれたのは、挙式から実に三ヶ月も後のことであった。
 その日私は、股間を舐められるという経験も初めてした。
「ひっ……!」
 何とも言い難い気色の悪さに思わず叫んでしまい、その瞬間、桧山の動きがピクリと止まった。口に出さずとも、桧山が私の悲鳴を不快に思ったことは間違いなかった。声を出さぬように努めなければ。両手で口を押さえながら、硬く目を瞑った。
 これまで何をされても痛いばかりで、その苦痛を物言わず耐えてきた私だったが、舐められることは痛みを伴わない代わりに新たな方向への苦痛があった。
 なめくじが股間を這い回っているような感触。
 粘ついた液体を身体にじっとりとまとわりつかせ、触れられたくない場所ばかりを執拗に移動し続けている。
 こんなことを連想してしまう私は、女としてだけでなく、人としても欠陥品なのではないかと恐れた。世の女性にとっては、これが本当に快感を呼び起こす行 為になるのか。間違いなく下肢を這っているのは夫の舌であるのに、ペニスばかりでなく舌までも人外の物のように感じてしまう私は、精神に異常でもきたして いるのではあるまいか。
 事実、気が狂ってしまいそうだった。痛い方がまだ耐えられる。真綿で首を絞められる苦しみとは、こんなことをいうのではないか。このまま耐えきれるかどうかわからない。一刻も早く解放されたい。
 願いが届いたのか、太腿を持ち上げられ、ペニスが突きつけられた。
 唾液で湿っているせいか、二、三度亀頭が滑って外れた。桧山は根本を手で支えたようだった。激痛が、やってきた。
「く……!」
 これまでより深く突き入れられている感覚があった。容赦ない力が数度加えられ、ずり上がろうとする身体を押さえつけられた。
「力を……抜け」
「は……はいっ……」
 必死で力を抜こうとするものの、身体は強ばったままどうにもならない。痛みと恐怖と嫌悪と。布団の上の私はそれだけに支配されていた。
 そこに愛は、すでになかった。
「抜けと言っているだろう!」
「あぐっ! ご、ごめんな……っぐぅ!!」
 限界まで押し伸ばされた肉が、その瞬間裂けた。身体の中心が、激痛にわなないた。傷をいたわることなく硬い肉の棒はめり込んでくる。これを「結ばれた」と表現するなど、あまりにもそぐわなさ過ぎると叫びたかった。
 桧山は更に腰を押しつけてきた。泣きたくないのに、痛さのあまりひとりでに涙が滲み出た。
 これでやっと本当の夫婦になれたのだという感慨は、少なからずあった。しかし私にとってそれは、妻の役目をようやく果たすことができたという義務感から 来る安堵でしかなく、愛する夫を受け入れられた悦びとはほど遠い感情だった。そしてその少しの安堵を噛みしめる間もなく、新たな激痛に堪えることを強いら れた。
 桧山が私の腰を押さえて、抽送しだしたのだった。傷口を押し広げたままの摩擦は、まさに焼けるような痛みをもたらした。
 許して! 助けて! 誰か……!
 決して声に出せない叫びを喉の奥に押し留め、歯を食いしばり続けた。一秒でも早く終わりの時が訪れることを祈った。引き裂かれた肉が悲鳴をあげ続けた。これまで体験したどの痛みより、抜き差しの痛みは私を苦しめた。身体と共に、精神が引き裂かれていく音が聞こえた。
 どれぐらいこの焼かれるような痛みに耐えただろう。それは突然終わった。低いうめき声と共に、最後の痛みを残してペニスは私から引き抜かれ、次の瞬間首 筋になま暖かい液体が飛んできた。続いて鎖骨へ、乳房へ、最後にはへそへ。激痛から解放され放心していたが、しばらくしてから子種を貰えなかったというこ とに気付いた。
 私はすぐにでも、身ごもりたかった。一日も早く母に孫の顔を見せてやりたかった。桧山も両親に対し、同じように思っていると信じていた。
 荒く息を吐きながら私の横に俯せに倒れた夫に、声をかけずにはいられなかった。
「あの……赤ちゃんを……つくるんじゃ……ないの?」
「ああ……」
「こうしたら……出来ないのでは……」
 恐る恐る尋ねた私に、桧山は満たされた笑顔でこう答えた。
「まだいいじゃないか。やっと出来たんだ。もうしばらく愉しんでからで」
 首筋を、人肌になった粘液が這うように伝っていった。なめくじに這われていた方が、幾分かマシかと思えるような不快さだった。

 やっと、夫婦になれた。しかし、だからといって、私たちのひずみが修復されていくわけではなかった。むしろ、それは大きくなる一方だった。

 私にとって夜の営みは、その後も変わらず苦痛でしかなかった。変わらないどころか、日を追うごとに苦痛は増していった。挿入の痛み自体は軽減されていっ たものの、乳房を握りつぶされるほど揉まれたり、襞を激しく擦られることに快楽は一切見出せなかった。荒々しい前戯には、愛情も感じられなかった。濡れる という感覚が、どんなものかもわからないままだった。
 桧山はそのうちに、フェラチオをすることを私に強要しだした。
 膝立ちになった桧山に縋るように跪き、私は股間のものを口に含む。唇を丸めろ、歯を立てるな。普通に性交をしているときは無口な桧山が、これをしているときだけはあれこれ指図を出してきた。私はそれに従った。逆らうことなど、恐ろしくて出来なかった。

 私は、頼れる存在であったはずの夫に、恐怖していた。
 性生活の問題だけではなく、日常にもひずみが走っていたのだ。
 妻になってみて初めてわかったこと。桧山は徹底的に、外面の良い人間だった。ちょっとした知り合い、会社の人間、友人、私の母、自身の両親にまで。関わり合う人間全てに良い顔をすることを、自らに義務づけているような男だったのだ。
 しかし唯一例外が存在した。妻である私だ。常に周囲に気を使い、ある時は男気溢れる先輩に、ある時は気の利く友人に、ある時は有能で忠実な部下に、ある時は理想的な婿に成りきる。そうすることで溜まったストレスのはけ口に使われるのが、彼にとっての妻という存在だった。
 些細なことで、烈火のごとく怒鳴られた。みそ汁の味が薄い、洗面台に髪の毛が一本落ちていた、言いつけに対しての返事が良くなかった、果ては、顔が気にくわなかった。
 ただの八つ当たりであり、私に叱責されるほどの落ち度はなかったと今はわかる。
 しかし男性に激昂されることに慣れていなく、物事の善悪を正常に判断する力を削ぎ落とされつつあった当時の私は、桧山が憤るたびに自分は至らない妻なの だとうちひしがれ、そんな自分を嫌悪した。桧山はまた弁の立つ男で、私の弱々しい反論など簡単にねじ伏せてしまう力を持っていた。波が岩を少しずつ削って いくように、私は桧山によって自分をなくしていった。

 私たちは夫婦ではなく、王と奴隷であった。家庭は彼の王国だ。王に選ばれ買われた私に、拒否権は与えられていなかった。私は常に、彼の顔色を伺いながら暮らしていた。

「根本までゆっくりと飲み込め」
 王が命令する。私は返事の代わりに、王のペニスを口内へ納めていく。やがて喉の奥に当たるまで飲み込むと、次の命令が下される。
「裏筋を舐めろ。根本からなぞるように」
 圧迫されることでこみ上げる吐き気を抑えながら、尖らせた舌を命令通り這わす。歯を立てぬように気を付けなければならない。うっかりと噛んでしまい、憤激された過去の恐ろしさが蘇ってくる。
 興が乗ってくると、王は私の髪を掴み、好きなように揺さぶった。こうされる時が一番苦しく、そして痛みを与えぬようにいっそうの注意が必要だった。フェ ラチオをさせるようになってからの桧山は、挿入せずに一人で果てることが多くなった。口の中に出された精液は、飲み下すことしか許されなかった。
 仰向けに寝転がり、そこに私が覆い被さるような形でのフェラチオも彼は好んだ。その場合は私が、彼の顔をまたぐように股間をひらく。彼は眼前にある女性 器をしげしげと見つめたり、好きなように指で弄ることを愉しんでいるようだった。左右の肉を割って中の襞を撫でたり、中へ続く路へ指を突き立てたり、与え られた玩具を弄るがごとく、思う様扱った。
 私は羞恥心を捨てつつあった。捨て去らないと、王に仕えていくことは出来なかった。




 そんな結婚生活が、三年ほど経過しようとしていた。この頃にはもう、桧山がなぜ私との結婚を決めたのか、わかりすぎるほどわかってしまっていた。

 何を要求しても逆らうことをしなさそうな従順な女。
 ストレスのはけ口にしても、それを甘んじて忍んでいきそうな女。
 もし現況を知ったとしても、強いことを言える男の存在を身内に持たない女。
 何より、不満を抱えながらも抗議を口に出来ないばりか、誰かに助けを求めることも出来ない、意気地のない女。

 そこまでわかっていながら、愛情など初めから存在しなかったのだと知っていながら、私はこの結婚生活にしがみついていた。
 母を悲しませるようなことはしたくなかったのだ。
 桧山は母にとって、結婚前と変わらず、頼りになり娘を幸せにしてくれる男という存在だった。盆と正月には必ず土産を携えて里帰りに付き合い、自分の実家よりも大事にしているというそぶりさえ見せた。
「お母さんおひとりですからね……いや、うちのことはいいんですよ、まだ両親とも健在ですし、兄も妹もいますしね。大事な一人娘を頂いたんです。その実家も大切にしないと、バチが当たりますよ」
 ああ、これが彼の心からの言葉であったらどんなに良かったか……!
 二人きりでいるときとはうって変わって、優しく頼もしい婿を演じる桧山の姿に、私は何度も苦しい涙がこぼれそうになるのを辛抱した。そんな私の姿を見る ことが、桧山一流の欣快を得る手段であるなどと気付くこともなかった。あまつさえ、義母に対し不満を漏らすことなく、嫁の至らなさを隠しておいてくれる夫 に感謝の念まで抱いていた。それはやがて、この世でたった一人、私さえ我慢していけば、全てが平穏に巧く流れていくのだという錯覚を招いていくことになっ た。
 取るに足りない私。女としても妻としても、人としてすらも欠陥品である私。こんな私は、少しばかりのことは我慢するべきなのだ。我慢することでしか生きていくことを許されないのだ。これが私という人間に相応しい人生なのだ、と。

 夫婦間のひずみなどとは、もはや言えないレベルのものだったろう。桧山の望む通りの奴隷に、私は仕立て上げられつつあった。
 しかし完璧な形になるには至らなかった。私の精神は崩壊し始めていた。
 精神の崩壊は、肉体をも蝕み始めた。その三年で十キロは痩せた。慢性的な胃炎を患った。何カ所も髪が抜け落ちた。私の身体が悲鳴を上げていることなどお構いなしに、ついには些細なことで殴られるようになった。




 思い出すだけで、吐き気と、その時の恐ろしさが襲いかかってくるような記憶の数々。だけど、私はもうそれに負けたりはしない。繰り返し、アドレス帳に指を滑らせる。彼とのあの一夜が、全てを振り出しに戻してくれたから。削り取られていった私は、彼が再び与えてくれたから。




 桧山は、良い夫たる姿を他人に見せることも非常に好んでいた。桧山と同伴で誰かに会うときは、常に小綺麗に装い、愛想良くしろと言いつけられた。懇意に している相手の前だけでなく、顔見知り程度の知人や、食事に行った先の店員にまでもそうすることを強要されていた。どちらかといえば内向的な私には難しい 要求だったが、人前で萎縮していると家へ帰ったあとに容赦なく拳が飛んだ。お前は俺に恥をかかせたいのかと、幾度も殴りつけられた。
 外食することも比較的多かったように思う。むろん妻を大切に扱う良き夫としての姿を、外に向かって誇示する手段の一つだった。連れて行かれる店は規模の 小さな店が多かった。有名な料理店やチェーン店よりも、自分を常連として特別扱いしてくれるような小さな店を好むのは、いかにも桧山らしい考え方だった。

 彼との出会いは、そこにあった。
 桧山の会社の傍にある、こぢんまりとした日本料理の店。彼はそこを一人で切り盛りしている、店長であり板長だった。

 これはきっとお好きだと思います、と出された蕗の煮付けが、母の味を彷彿とさせた。
「店長は同郷なんだよ。懐かしい味がするだろう」
 家においては見ることのない明るい笑顔で、桧山が言う。
「奥さんもご出身が同じらしいですね」
 声をかけられて、初めて彼の顔を見つめた。桧山とは違う柔和な笑顔が、檜のカウンター越しにあった。
「田舎の味というのは不思議なものですね。新しい味付けに挑戦しようと思っても、知らない間にこの味に戻ってしまうんです。体に染みついてしまっているんですかねぇ」
 若いのに言うことが爺むさいな、と桧山がからかう。桧山さんには敵わないなぁと、紺色の作務衣姿の青年がはにかむ。
 きっかけは、久しく忘れていた故郷の味を出されたことにあったろう。しかし、いつしか私は料理以上に、彼自身のあたたかな微笑みに対して、言葉では言い 表せない感慨を抱きはじめていた。気付けば箸をとめて、まな板に向かう姿を見つめていた。季節は秋だったが、彼の周りには春を思わせる空気が取り巻いてい た。
 出された料理は、全て私の口に合った。素材の味をねじ曲げたりはせず、元々ある味を優しく抱き起こすような味付けだった。どれもこれも美しく皿に盛られ、かといってお高くとまっている印象はなく、それを作った人―――彼の人柄が滲み出ているようだった。

「気に入って頂けましたか?」
 桧山が手洗いに席を立ったときだった。不意に彼に声をかけられ、私は少し戸惑った。「どれも美味しかったです」と答える声は、うわずってしまったと記憶 している。「有り難うございます」と彼は微笑み、そこで会話は途絶えるかと思った。再びまな板に目を落とした彼が、包丁を握る手をとめてこちらをじっと見 つめてきた。
「……どんな方だろうと思っていたんです」
 初めは何を言われているのか、わからなかった。しばらくして、それは私のことだと気付いた。
「私……ですか?」
「ええ。桧山さんと連れ添っていらっしゃる方は、どんな方なのだろうかと」
 なぜ彼はそんな興味を持つのだろう。とても、不思議なことだった。彼の真意が掴めず落ち着かない私は、縋るように湯飲みを握っていた。
「思った通りの方でした」
 笑顔を作りきれないといった表情で、彼は私を見つめていた。彼の思った通りとは。彼は一体何を思い描いていたのだろうか。
「すみません、こんな話は失礼でしたね。妙なことを言ってしまって申し訳ありませんでした」
 軽く頭を下げ、彼はまた手を動かし出した。店内に他に客はいなかった。手際よく葱を刻む音だけが響いていた。何が失礼で、何が妙なことだったのか。それ すらもわからず、私は刻まれていく葱を目で追っていた。包丁の動きが、再びとまった。まな板に向かっていた顔が、躊躇いがちにこちらを向いた。
「……幸せ、ですか?」
 それに答える間もなく、桧山が席へ戻ってきた。

 幸せですか。
 初めて人に、そう問われた。
「幸せそうですね」
「いいご主人ですね」
「頼もしい旦那様で羨ましい」
 こう言われることはこれまでに多々あった。何せ桧山は、外では完璧な男であり、夫であったから。その得難い男性と連れ添っている私に、幸福かどうかを尋ねる人などいなかった。ただの一人も。

 家に帰ると、外出用の上着を脱ぐなり殴り飛ばされた。壁にしたたか身体を打ち付け、崩れるようにうずくまったところで、更に腹を蹴られた。
「お前、あの男に色目を使っていただろう」
 むせながら、あの男とは一体誰のことかと自問した。わからなかった。
「ちょっと若い男ならお前は誰でもいいのか!」
 胸ぐらを掴まれて引っ張り上げられ、激しく揺すられた。何も考えることが出来なかった。嵐に翻弄される小枝のように、私は桧山の暴力に対し無力だった。 咳き込んで答えられない私を、桧山は畳に叩きつけた。すぐさまスカートの中に腕が突っ込まれた。桧山の爪が引っかかったのだろう、ストッキングとショーツ を引き剥がされる際に、太腿を抉られるような痛みが走った。
 蛍光灯の下、スカートをまくられ剥き出しになった下半身を、大きく広げられる。なぜこんな乱暴を受けなければならないのかわからないまま、何に対して謝 罪しているかもわからないまま、私はひたすら桧山にごめんなさいと謝り続けた。乾ききったそこは簡単に男を受け入れることが出来ず、業を煮やした桧山は私 の唇にペニスを押しつけた。受け入れなければまた殴られる。私は大人しくそれに舌を伸ばした。
「ははは……お前は娼婦か。目の前にちんちんがあれば舐めるのか。そんなにこれが好きか」
 謂われのない侮辱を受けているにもかかわらず、私の心は空虚だった。涙すら出てこなかった。ただただ、この嵐のようなひとときが早く過ぎ去って欲しい一 心で、口の中のペニスを頬張った。唾液で湿ったペニスを、再び膣口にあてがわれた。いつまで経っても慣れることのない痛みを、私は耐えるしかなかった。
 ブラウスを左右に引き裂かれ、ブラジャーを力任せにずり上げられた。鷲づかみにされた両の乳房が、醜く変形した。紅潮した桧山の顔も、猥褻に歪んでいた。
「お前は好き者だ。濡れているぞ、聞こえるかこの音が。淫乱な女め!」
 音など何も耳に入ってこなかった。最初に殴られたときから耳鳴りが止まずにいた。桧山の耳には、何が聞こえていたのだろうか。
 内臓を潰すような勢いで、幾度も突かれた。外から腹を蹴られた痛みと、内から殴られる痛みで、気が遠くなっていくのを感じた。私が意識を手離そうとする寸前に、桧山はひときわ激しい律動を加え、腰を押しつけたまま動かなくなった。
膣内に射精されたのだとわかった。初めてのことだった。
 遠ざかっていく意識の中、幸せですかと問いかけてきた彼の顔が、頭に浮かんで消えていった。




 私の生活には様々な制限があった。
 一人で勝手に外出することを、許されていなかった。近所へ食料品を買い物に行くことすら、前日に報告することを義務づけられていた。仕事を持つことも許されていなかった。妻が外で働くなど対面が悪いというのが、桧山の言い分だった。
 これらの禁止事項は、私という奴隷を家という名の牢獄に閉じこめ、支配者が優越感に浸る為のものだった。加えて、私が他の男と接する機会を作りたくなかったのだろうと今は想像できるが、その頃は考えの及ばないことだった。
 気の合う友人を東京で作る機会はなかった。マンションの住人達は互いに干渉し合うことを嫌ったので、近所付き合いもほとんどなかった。里が、恋しかった。
 私は本当に、桧山という男の世界にのみ生きることを許された人間だった。それが「嫁いだ」ということだと思っていた。自分の世界を持つなど、いや、誰しも持っているなど、考えてみたこともなかった。




 師走の声もそろそろ聞こうかという肌寒い日のことだった。
 書類を忘れたから届けに来いと、会社から電話があった。私が勝手に出かけることは許されないが、桧山の言いつけならばどこへでも行かなければならない。身綺麗にして桧山の会社へ向かった。
 電車に揺られ、会社のビルまで歩いて行き、無事書類を届け終え、私は桧山の許を後にした。昼下がりのオフィス街は人もまばらで、どことなく淋しさが漂っていた。
 慣れないパンプスを履いたせいで、踵に痛みを感じた。歩道の端に寄って、しゃがんでさすった。
 低い溜息がこぼれた。
 それは間違いなく失意の溜息であったのだけれど、何に対しての失意なのか、私にはもうわからなくなっていた。

「あの、大丈夫ですか?」
 背後の、ごく近い場所から声が聞こえた。驚いて、その方を振り返った。振り返ってから、私はまた驚くことになる。
「……あ」
 二人とも同時に、小さな声を漏らした。
「あなたは、桧山さんの」
 そこにいたのは、作務衣にジャンパーを羽織った、彼だった。

「すみません……お言葉に甘えてしまって」
 靴擦れは思ったより酷く、うずくまる私の踵を見た彼は、店に行けば簡単な手当てなら出来ますからと促した。
「いえ、丁度店も閉めている時間ですから、気にしないで下さい」
 確かに彼の言う通り、店のある飲食店が集まったビルは閑散としていた。私はカウンターに座り、調理場の棚を探る彼の姿を目で追っていた。
「ああ、あった。しばらく使わないとどこに置いたか忘れてしまいますね」
 消毒液を手に、彼がカウンターの下をくぐってこちらへやって来て、私は少し狼狽した。
「あ、あの、自分でやれますから」
「ご自分だと見えにくい場所でしょう。こちらを向いて下さい」
 立ち上がろうとする私をやんわりと制して、彼が私の足下に跪いた。
 ロングスカートを履いていたから、少し足を上げたところで気になりはしない。しかし、ストッキングを脱いだ素足を、夫以外の男に触れさせるのには抵抗が あった。私の戸惑いを見て取ったのか「では、ここに足を乗せて下さい。触れたりはしませんから」と、私の前にカウンターの椅子を一つ差し出した。
 おずおずと、そこにふくらはぎを乗せた。
「痛いかもしれないですけど、少しだけ我慢して下さいね」
 彼は生真面目な顔つきで、踵に消毒液を吹きかける。少し滲みたが、いつも堪えている痛みを思えば、痛いと思うほどのことでもなかった。
「少し乾かさないとバンドエイドが貼れないと思うので……」
「あの、本当に結構です……あとは自分で……」
 手で風を送って傷口を乾かそうとする彼を、制そうと手を伸ばした。はたと、目が合った。なぜか、急激に頬が熱くなっていくのを感じた。彼も反射的に、私の足から手を引っ込めていた。
 この一瞬でお互いが意識し合ったのは間違いなかったが、彼はうろたえるばかりの私と違っていた。何かを考え込むように俯き、再び私に向き直ると、戸惑いを隠しきれぬ表情で口を開いた。
「……驚きました」
 伸ばした足の横に跪いたまま、彼は私の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「あなたともう一度こんな風に会うなどと、思いもしなかったです」
 彼の言葉には、偶然に対する単純な感嘆以外の何かが込められている気がした。正体のわからない何かに刺激され、私の頬はなお熱くなっていく。私は彼から目を逸らし、伸ばしたつま先を見つめた。
「もういいかな……ちょっと失礼します」
 桧山に対し、酷く悪いことをしている気がしたのに、彼が足に触れようとすることをとめられなかった。しっとりとした指先が、私の踵に触れた。
 不意に、形容しがたい感情に囚われた。
 別に何と言うことでもない。彼はただ、事務的に手当てをしてくれているだけだと、自分に言い聞かせようとした。それなのに、丁寧にフィルムを剥がして、 真剣な目つきで傷を見つめ、慎重に覆おうとする彼の姿を見ていると、目頭がじんと熱を帯びていった。彼の手はとても優しく、優しさに触れることはうんと久 しぶりのことで、身体の一部を慎重に扱われるなど初めての経験で、胸の底から湧き上がった言葉に出来ない感情の全てが、涙腺を突いた。
 押し出されようとする涙を、抑えることが、出来なかった。
「ど……どうしましたか? そんなに痛かったですか?」
 頬が濡れていった。幾筋も涙が滑り落ちた。私自身不可解な涙だった。俯いて、ただほろほろと、流れるままに任せるしかなかった。
 彼が、私の顔を覗き込んだ。両の二の腕に、彼の手が添えられていた。滲む視界に、日溜まりのような彼の姿があった。

 あたたかかった。
 彼の手も、眼差しも、彼の何もかもが、あたたかかった。

 彼の胸が目の前に迫った。次の瞬間には、私は彼の腕の中にいた。
 何度も何度も、掌が私の頭を撫でた。片腕で背中を包まれ、もう一方の手は髪の流れに沿って、絶えず滑りおろされた。優しく。限りなく優しく。
「いいんですよ……」
 子供をあやすように私を撫で続けながら彼が言う。遙か昔に失った、父の腕の中を思った。夫に抱かれていても、父を思い出すことなど一度もなかった。
「痛かったら、痛いと泣いていいんです」
 頭上からの声が、私の全身に、降り注いだ。
 それは私の中に滑り込み、感情を堰き止める栓の全てを解放した。 
「……かった」
 小さすぎる呟きは、きっと彼の耳には届かなかっただろうに。
 それでも彼は受け止めてくれたのだ。彼は「うん」と言って、腕の中の私をいっそう優しく抱いた。
「痛かったです……ずっと、痛かったです……」
 堰を切った涙は、滂沱として止まらなかった。
 彼の与えてくれる日溜まりの中で、私はこの三年間絶えず耐えてきた涙の全てを出し切るかのように、泣き続けた。

「幸せじゃ、ないのですね」
 どれくらいそうして泣いていたか、ようやく新たな涙が収まり始めた頃、ぽつりと彼が言った。
 あの日幸せですかと問うた彼は、今や答えを聞かずとも断定していた。思いもよらず泣きじゃくってしまったとはいえ、なぜそうと決めつけることが出来るのかと、私は混乱に陥った。
 そしてにわかに、夫以外の異性に抱かれて泣いたという行為の恐ろしさに気付いた。ぐいと、彼の身体を押し返した。私の瞳に抗議の色を見て取ったのか、彼の表情が後悔に曇った。しかし、彼は私に向かい合うことをやめなかった。
「不躾なことを言ってすいません。私はその……仕事柄色んな人に接する機会が多くて、話をしてるうちに人となりがわかってしまうというか……」
 彼が言い淀んでいることが何であるかを思うと、身震いがした。
「ご主人は、あなたに辛く当たられませんか」
 私は言葉を失った。
 否定も肯定も出来ず、瞳をあちこちに揺らしながら、膝の上の手を握りしめることしか出来なかった。
「ご主人が店に来て下さるようになって数ヶ月が経ちます。親しくして下さっているうちに、前に申し上げたように、この人の伴侶は一体どんな人だろうという興味が、私の中で大きくなっていきました」
 まるで、懺悔にも聞こえる告白だった。
 私はもちろん、それを聞けるような立場ではなかったが、言葉を奪われてしまった今は、ただ彼を見守ることしかできなかった。
「本当に失礼ながら、それは憐憫にも似た感情でした。ああ……僕は、いや私は、今日のこの得難い偶然に我を失っているのかもしれません。しかし聞いて下さい。あの日から、あなたのことばかりを考えていたのです」
 目を見張った。驚きに強ばる私を、彼はせっぱ詰まった表情で見つめ続けていた。
「私は勝手な推測をしていました。きっとこの人は、家庭の中では暴君であろうと。細君はそれを黙して耐えるような人なのか、それとも、それを気にもとめな い気丈な人なのか。初めのうちは低俗な興味だけで、あなたを見つめていました。はたして、あなたは前者だった。そうか前者だったか。それで終わるはずだっ たのです。しかし自分でもなぜかわからない、お二人が店を去ってからも、あなたのことばかりを考えている私がいました」
 彼は性急にそこまでを語ると、自らを鎮めるように大きく息を吐いた。
「下卑た哀れみであったはずの感情がいつしか、私なら、あなたをもっと……」
 コツコツと、時計の針が動く音だけが聞こえた。
 それが耳に入らなければ、時が止まったかにも思える沈黙だった。
「答えて下さい、あなたは今、幸せですか。あなたがはいと答えるなら、私のこの失礼極まりない話はどうか忘れて下さい。無礼を許して下さい」
 
 彼が、私の答えを待っていた。
 私は、進退窮まる気持ちだった。
 いいえと言ってしまったら、不幸であると認めてしまったら、私のこの先の人生はどうなるのであろうか。新たな人生が開けるとは、考えもつかなかった。今保っている平衡はなんとしても守らねばならないという強迫観念が、私には深く染みついていた。
 はい、と答えようとした。しかし、頷くことすら出来なかった。目の前で私の答えを待つ彼の姿は、あまりにも誠実で、あまりにもあたたかく。差し伸べられている手を拒もうとすることは、これまで懸命に耐え続けてきた数々の辛苦を遙かに勝る苦しさであった。
 葛藤のただ中、無意識に首を横に振ろうとしている私がいた。
 しかしその刹那、私に対して激昂する桧山の姿が、脳裏に鮮明に蘇った。
「私は……」
 あれだけ流した涙が、また滲み出ようとしていた。
「私は、出来損ないの女です……」
 声が、震えた。だが、私は言い切った。言葉と共に、枯れようとしない涙が溢れ出た。
「何を……」
「あなたのような人に、こんな風に想って頂く価値など、どこにもありません」
 これが私の真実だったからだ。彼は、私という人間の表面だけを見つめ、買いかぶっているに過ぎないのだ。このあたたかな優しい人に、私のような不良品を掴ませることなど、出来るはずがない。
 断固として、私はそう思った。
「なぜ、なぜあなたがそれを決めるのですか!」
 予想だにしない激しい口調で、彼が私を責めた。しかし桧山のそれとは違い、恐ろしさの代わりに彼のもどかしさだけが、私を揺さぶった。
「それは僕が決めることだ! いいですか、僕はあなたが愛おしいのです。あなたと寄り添いたいのです。あなたがそれを拒むとしたら、同じ想いを返して下さらないときだけです!」
「で……でも……ん!」
 抵抗する間もない出来事だった。再び腕に身体を絡め取られ、唇が重なった。彼の吐息は熱く、その熱は私の身体に飛び火した。
 初めて焼かれる、官能の炎だった。
 押しつけられている唇に、彼の情熱の全てがかけられているように感じた。血が滾り、息が詰まりそうになる。眩暈すら覚えそうな激情の中で、私は胸の奥に小さな蕾を見た。彼が私に宿した、たった一つの花の蕾を。
 しかしその蕾に、突如凶悪な掌が迫った。桧山の手だった。暗黒の中に掻き消えるかのように、蕾は掌に握り潰された。
「や……やめて下さい!」
 ありったけの力で彼を押し戻している私がいた。涙が、溢れて止まらなかった。
「あ……す、すみません……僕は……」
「私は……私は……」
 あなたに好意を抱いている。それも、言い表しようもない好意を。
 口にしたくとも、言える勇気はなかった。そして好意を持ちつつも、受け入れることは出来ないなどと。
「ごめんなさい、失礼します」
 慌ててパンプスをつっかけ、その場を去ろうとする私に彼が言った。
「待って下さい! ……実は、今年いっぱいでこの店をたたみます」
 背中にその声を聞いた。走り出そうとする足が止まった。
「田舎に帰って、そこで店を出すことに決めたのです。どうかそれまでにもう一度考えてはくれませんか!」
 彼の必死さとあまりにも唐突な呼びかけが、私を振り返らせた。
「な、何を……」
「僕と共に生きることをです!」
 そう、彼ははっきりと言ったのだ。
「お願いです……決していい加減な気持ちで言っているのではありません。腕の中で泣いたあなたを見て、僕は確信したのです。この気持ちが愛だと。あなたを幸せにしたいのです」
 視界に移る彼の姿は涙に滲んでいたが、強い眼差しが私を捉えて放そうとしなかった。
「もう一度ここへ来て下さい……待っています。あなたは決して、出来損ないなんかではない。そんな風にご自分を卑下してはいけない。僕ならきっと、本当のあなたを、あなた自身に、わからせることが出来ます……」




 結局私は、彼に何の返答も与えることなく、店を後にした。
 彼も、私を追うことをしなかった。

 幸運にもその日のことが桧山に知れることはなく、日常には何の変化もなかった。あくまでも、目に見える範囲内では。
 私の中では劇的ともいえる変化が起きていた。
 酒臭い唇を押しつけられるたび、彼の熱い唇を想った。
 乱暴な愛撫を受けるたび、彼の優しい指を想った。
 布団に組み敷かれて腰を突きつけられるたび、彼のあたたかな胸の中を想った。

 桧山に握りつぶされたかと思った花の蕾は、私の中で密やかに息づいていたのだ。か弱く思った蕾は、意外にもしなやかな強さを持って、私に根を張りつつあった。
 だが、それで私に与えられた人生が変わるわけではなかった。
 彼ともう一度会うなど、それが桧山に露顕したときのことを考えるだけでも恐ろしい。夫に知られずにこの家から出てどこかへ、しかも他の男の許へ行くなど、妻として最大級の過ちに思えた。迷い、考えるだけでも、犯しがたい罪だった。
 私は桧山の奴隷なのだ。奴隷が王から逃れ得るとき、それは死が訪れるときだけだ。私の頭の中に、夫を捨て、他の男と連れ添うという選択肢は存在しなかった。
 ないにも関わらず、彼への思慕は募る一方だった。私を出来損ないではないと言った彼。私に何らかの価値を見出してくれた彼。私に春を感じさせた彼。そのあたたかな眼差し。情熱的な唇はさながら、花びらを乱舞させる春の嵐。
 包まれたい、彼に。彼の腕の中で、この蕾を咲かせたい。
 叶うはずもない願いを胸に秘め、刻々と迫る告げられた期限を思って身悶え、幾日もまんじりともせず夜を明かした。

 私には、情けなくも勇気がなかった。
 一歩を踏み出すことを、どこまでも恐れていた。
 少し手を伸ばすだけで彼の手は掴めるのに、足下に口を開ける奈落に震え続けた。
 磁力と同じく、それも私の心弱さが創り出す幻だとは、この時の私には知るよしもなかった。




 そして、運命の日。
 またしても私は偶然に助けられることになる。まるで、何者かの見えない手が、お前はいつまで愚かに恐れ続けるのだと、背中を押したように。

 その前の晩の桧山は、帰宅するなり不機嫌に言いつけた。
「仙台へ出張することになった。まったくこの師走の忙しいときに……。明日の朝発って明後日の夜には帰る。支度をしろ」

 にわかに動悸が激しくなった。
 桧山が家を留守にする。家を空けた日の桧山は必ず出先から電話をしてきたが、私が就寝する夜十時頃のことだ。その電話を取った後ならば、翌日の夜まで桧山から解放されることになるまいか。
 諦めの中、突然降ってわいたような好機に私の心は逸った。
 この機を逃せば、二度と彼と相見えることは出来まい。
 たったひとつの蕾を咲かすことも出来まい。
 そう、たった一度なら。
 恥ずべきことに、勇気ではなかった。まさしく、魔が差した。桧山から逃げるのではなく、彼の手を取るのでもなく、桧山と共にあり続ける為に、一度きりの思い出を貰おうと、それがあればこの牢獄でこれからも生きていけると、私はしたたかにも彼を利用しようとしたのだ。

 どうか、どうか、許して下さい。
 それは夫になのか、母になのか、もしくは彼になのか。誰に対して請うているのかわからない許しを繰り返しながら、桧山からの電話を待った。出かける支度はすっかり出来ていた。あとは王に、奴隷が牢獄に繋がれていることを確認させるだけで、しばしの自由を手に入れることが出来るのだ。
 そして、解放を告げる鐘の音が鳴った。
 通話を終え、私はかつてないほどの緊張と共に、家の扉を閉めた。
 頬を刺す夜の冷たさは、少しも気にならなかった。巡る血潮が、私を暖め続けていた。




 店にやってきた私の姿を見て、彼は皿を取り落とした。すでに商い中の看板は外され、店内には彼一人であった。聞けば、店を開けるのも今日が最後で、明日 からは荷物をまとめるつもりだったという。そうして今年いっぱいまで、私がここへ来るのを待つと決めていたと。あなたはきっと来てくれると思っていたと、 彼は語った。

「お名前をまだ聞いていませんでした。」
 夜の街を寄り添うように歩いていた。
 風音すらしない、静かな冬の夜。二人の靴音だけが、冷えきって澄んだ空気の中に響いていた。
「瑞枝です。瑞々しい枝、と書いて……」
「……あなたにぴったりだ」
 彼が目を細める。お世辞ではない賞賛に、私の胸は痛んだ。すっかり葉の落ちた街路樹が、目に入った。
「いいえ、名前負けしています。朽ちた枝です、私は」
「またそんな風に言う……。あなたに罪があるとしたら、そうやって自身を貶めることだけですよ」
 彼の言葉は驚くほどすんなりと心に響き、わたしの目頭をまた熱くする。今なら、はしたなくも聞けると思った。彼が私の何に惹かれたのかを。
「わからないんです……」
 先を言い淀む私に、彼は優しい眼差しを向ける。
「あの、なぜですか? なぜそんなに、私を……?」
「ああ……どう言えばいいんでしょうね」
 そこからしばらく、沈黙のまま歩いた。彼は口に出す言葉を探しているように思えた。これがもし彼でなければ、私はその沈黙を気詰まりに思っただろう。言 葉を探す彼に、ただ女を抱くための口実を探していると、誠実さを疑っただろう。しかし彼だからこそ、そうは思わなかった。思わなかったことこそが疑問に対 する答えだとは、まだ気付けずにいた。
「例えば、僕はくっきりした二重瞼の女性を、美しく思います」
 私は少なからず落胆した。私の瞼は地味な一重で、華やかな目元を持った女性に劣等感を抱いていたからだ。
「それが、あなたに出逢ってから、その優しげに目尻の下がった黒目がちな一重の目が、忘れられなくなった」
 歩みをとめることなく、彼は穏やかに続ける。
「僕は小柄で、少しふっくらした女性が好みです。しかしあの日見たあなたの、ほっそりと伸びた背筋と、袖口から覗いた華奢な手首が忘れられなくなった」
 落ち着いていた胸が、高鳴っていた。今すぐ駆け出したいような、うずくまって顔を隠したいような、甘い疼きが体中を駆け巡っていた。
「だからといって、僕の女性に対する好みが変わったわけではないんです。ではなぜ、好みでないはずのあなたの容姿を、僕は忘れられなかったのか。理屈はわかりません。ただ、一つだけ確かなのは……僕は恋をしたんだと」
 恋。彼は、はっきりとそう言った。
「ねぇ瑞枝さん、あなたは僕のどこに惹かれて今こうしているのか説明できますか? 僕だって、背が高いわけでも、色男なわけでもない。どこにでもいるごく平凡で、地味な男です。それでもこれまで、僕の面影を追いませんでしたか?」
 高鳴り続ける胸を持て余しながら、私は「はい」と、小さく答えた。この甘苦しい想いは、理由や動機の及び付かないところにある感情なのだと、彼の言葉を 聞いてはっきりと自覚した。密やかに、しかし圧倒的な存在感で私の心を動かしていったのは、恋という何もかも説明が付かない感情だったのだと。
「それが答えです。あなたはきっと、僕のたった一人なのです。そして、僕もまた、あなたの」
 私にまとわりついていた雲は、この瞬間に掻き消えていった。冴え冴えとした月光が、眩しい程に感じた。彼の手によって私がみつけた真実を、余すところ無く照らしているかのようだった。
 しかし私は、それを見つけながらもなお、決意を覆すことをしなかった。
 今夜一夜だけだと。
 夜が明ければ、私はまた奴隷として王の許へ帰るのだと。
 全ては遅すぎたのだ、と。
「手を繋ぎましょうか」
 見上げると、はにかんだ優しい微笑みがあった。私の指にそっと、彼の指が絡まった。冬の夜の空気に触れているにも関わらず、彼の掌はあたたかく柔らかかった。
「あなたは朽ちた枝などではない……春を待つ枝なんです、今は」
 指先から私を潤しながら、彼が言う。言葉までが、私に沁み入っていく。緩やかな暖かさに私は思わず、いずれ帰るべく運命を、忘れかけた。
「僕がきっと蘇らせます……」
 今、この時だけは、何一つ世間に憚ることのない恋人になれた気がした。しかし彼の手をそっと握り返したとき、それが残酷な錯覚にすぎないことを、私は痛烈に思い知らされた。薬指の戒めが、白金の存在が、指を絡めれば絡めるほど、冷ややかに現実を突きつける。
 ああ……! この手はいずれ、放さなければならない……!
 今触れている暖かさは朝になれば儚く消え去り、もう二度と、触れることは叶わないのだ。
 誰でもない、自らが決めたこと。そうわかっていながら、一度得た物を手離すことはいかほどに辛いかと、早くも挫けてしまいそうだった。
 私は、自分が知る以上に、貪欲であった。我知らず、強く彼の手を握りかえしていた。この小さな指輪など、忘れ去りたい。手だけではない、もっと、身体の 隅々まで彼に包まれたい。桧山に対しては一度も感じたことのなかった切なさだった。あれほどまでに苦しかった行為を、心の底から切望していた。彼と、繋が り合いたいと。

 彼のアパートに辿り着く頃には、もう日も変わろうとしていたか。扉を閉めた途端、強く抱きすくめられた。あの日と同じ、いや、それ以上に熱い唇を受け止め、胸の中の蕾が大きく膨らんでいった。
 靴を脱ぐのももどかしく部屋へ上がり、もつれ合うように狭い六畳間に倒れた。繰り返し降り落ちる口づけに、あるはずもない木立がざわめいた。嵐は嵐で も、彼のもたらす嵐は、桧山のそれとなんと違うことか。過ぎるのを待つのではなく、枝という枝を揺らして欲しくて、私は彼にしがみついた。コートの釦を外 しながら、彼が耳たぶにも口づける。それは命の枯れ果てた枝を蘇らせる息吹にも似て。干からびていた隙間が、彼の唇によって見る間に潤っていく。これが情 交するということか。この涙のこみ上げる寸前のような切なさこそが、官能であるのか。女になって三年にもなるというのに、私はそれらのひとつをも知らずに 生きてきた。
 私も彼の衣服を奪った。その下にあるはずのあたたかい身体に、今すぐにでも辿り着きたかった。身体を隠す布など、憎い存在にしか思えなかった。互いの肌が露わになっていく。降り止むことを知らない口づけは、首筋に、肩口に、鎖骨に、そして乳房にも落ちた。
「言ったでしょう……」
 荒くなりはじめた呼吸を抑えて、彼が囁く。
「僕ならわからせることが出来ると……本当のあなたを」
「……くっ」
 首筋を下から上へ舌が這い、乳房を包むように揉まれ、息が詰まりそうになった。
「なぜかわかりますか? 僕が、愛しているからです。あなたも、僕を愛しているからです」
 感じていた。彼の掌が、唇が肌に触れるたびに、私は快感に打ち震えた。それは酷く不思議なようで、どこかでごく自然なことにも思えた。下肢が潤んでいくのがわかった。今はまだ隠された場所が、触れて欲しいと泣いていた。泣けることが、ひたすらに嬉しかった。
 私は欠陥品ではなかった。彼の言った通りだった。こんなにも、女だ。愛を感じた人に愛おしまれ、情熱的に求められさえすれば、全身で泣ける、女だったのだ。
 愛している。夫ではない、まだ見知って間もない男を。
 否定すべき感情なのは百も承知だった。しかし、この夜だけは正直になることを許された気がした。ただ自分の感情と、身体ごと愛を伝えてくれる彼にだけ向き合っていて良いと、許された気がしたのだ。
 脱ぎ散らかした衣服の上、二人とも産まれたままに近い姿で身体を重ねていた。ようやく辿り着けた彼の肌は、なぜこんなにもと訝しむほどの馴染みようだっ た。広い背中を掻き撫でながら口づけを受け止めていた。まだ繋がってなどいないのに、一体になっていると錯覚するほど、私たちの肌には違和感がなかった。 それが嬉しくて、たまらなかった。
 太腿に当たっている、猛る彼自身に指を這わせた。熱くしているのは私なのだと思うと、これすらも愛おしかった。
 熱さが指から離れていった。彼の唇も降りていく。脇腹を辿り、臍へ。ゆっくりと、ショーツが降ろされていった。
 薄い布が取り去られると、微かに冷たさを感じるほどの潤みようだった。一体私のどこに、これだけの蜜は眠っていたのだろうか。それを疑問に思った瞬間、答えは突然私に降り下りた。

 花が、咲いたのだ。
 蕾が、ついにひらいたのだ。

 太陽と水を恵んでくれた人は、ショーツを降ろしながら太腿に口づけている。私の蜜は、尽きることなく溢れていく。
 彼はなんと大切に、そして狂おしく、私に口づけるのだろうか。私の中に咲いた花を、愛でるのであろうか。膝頭を舐め上げられ、私は小さく跳ねた。
「あ……の……そんなに……」
 足首からショーツが抜かれ、彼の唇が来た道を戻ろうとする。片腿を折るように上げられ、その内側にも舌が這った。彼の目にはきっと、茂みの下でしとどに濡れた花びらが映っていた。
「やめ、やめて……そんな風には誰にも……」
「これが……僕の愛し方です」
「あぁ!」
 太腿に舌を這わされたまま、指先で花びらをなぞられた。指の腹が、触れるか触れないかの強さでそこを滑った。
 蜜が溢れていれば、擦るのではなく滑らせることが出来るのだと、初めて知った。そこで得られる、喩えようもない快感も。
「すっかり花ひらいている。こんな風になったことはありましたか?」
 花芯に蜜を塗される心地よさに、背が反り返った。丸くそこを捏ねられ、思わず声が乱れた。
「あ……ありま……せん……んんっ」
「良かった……あると聞いたら、僕は狂ってしまいそうだ……」
「は……んっ……」
 彼の吐息が、花びらに近付いてくる。ひらいた花びらを、指で更に広げられた。つぅと、舌先が溝を舐め上げた。
「んくぅっ!」
 舌が蜜を掬うように、何度もそこをなぞる。花が震えた。震えは波紋になり、爪の先まで行き渡っていった。
「ぁあっ……あ、んあっ……」
 花芯を舌が絡め取った。濡れた音と共に唇の中に吸い込まれる。彼と自分の境目を、感じることが出来なくなった。しかし強烈なほど愛撫の快感はあり、せっぱ詰まった思いが体の奥底からせり上がりだした。
「あな……たのも……っ わたし、私だけがこん……な……っ」
 常に耐えることを強いられていた痛みではない、違う大きなものに、私は耐えていた。彼に手を伸ばしても、短く刈り込まれた髪にしか届かない。
「同じ事をされたら……僕はあなたを抱く前に、間違いなく果ててしまう」
 彼は言いながら、私をどこかへ追いつめていく。そこへ行き着きたいような、真っ直ぐ目指してはいけないような、甘美な苦しさ。
「ん……くうぅッ……いや……イ……ッ」
 解放が待っているとも知らず、私は震えの中で留まろうとしていた。それを押し出したのは、彼の指だった。緩んだ蜜壺のざらつきを数度擦られたとき、頂上へ押し上げられた。

 花が脈打っていた。
 生きている、と思った。
 削り取られ死につつあった私に、彼が命を与えてくれたのだと思った。
 知らぬ間に息を止めていたのか。身体は痺れ、呼吸は速かった。これが絶頂なのだと、言い知れない悦びに浸った。
 彼の唇が、私の唇に戻ってきた。花弁の中に熱いものがあてがわれた。押し広げられることが快感だった。痛みではなく、快感だった。
「はぁ……あ……あ……!」
「あぁ……」
 言葉にならない感嘆が、二人の口から同時に漏れた。こんなにも幸福なことだったとは。あたたかさと、熱さと、愛する者の形を感じることは、こんな悦びを 伴うものだったとは。春に包まれながら、春を受け入れ、花はなお濡れてひらいていく。彼の頬に触れた。潤んだ瞳が私を見つめた。愛に溺れている男の表情と は、なんと艶めかしいものなのか。
「んっ……あっ! ……あぁっ!」
 彼のペニスが出て行こうとすると私の花びらは絡みつき、入ろうとすると貪欲にまとわりついた。豊かな水音と同じリズムで、私は声を漏らした。とめようにもとめられないほど、衝動的な声だった。
「う……瑞枝さん……あぁ……」
 口づけを交わしながら、徐々に激しさを増す律動を受け止める。木立が大きく揺れていた。なんて心地よい嵐。揺さぶられるごとにまた、身体の中心が一斉にざわめきだす。
 彼の言ったことは、何一つ間違っていなかった。間違っていたのは私だった。私は朽ちた枝ではなく、生きて、春を待つ枝だったのだ。あの街路樹を思った。葉は散り落ち、朽ちたように見えても、その中に命は消えていない。春が訪れれば、また芽吹いていくのだ。
 芯から朽ちていれば、ぽきりと折れてしまうはずだ。内に瑞々しさがあるからこそ、蕾を宿すことが出来たのだ。揺さぶられることを悦びに変え、花に蜜を滴らせることが出来るのだ。
 彼という日溜まりがあれば、春を忘れさえしなければ、私は枯れない花を、たった一輪でも大輪の花を、心の中にずっと抱いていくことが出来る。
 再び訪れようとする絶頂を前に、私はそう確信した。
 彼を、きつく、きつく抱きしめた。
「あっ……んん……来……るっ……!」
「ああ僕も……もう!」

 嵐がやんだ。
 あたたかくも涼やかな風は、木立と、そこに咲く花を優しく撫でていった。





 彼の腕を枕にして、私は厚い胸に縋り付いていた。窓からの月明かりに、淡く照らされた鎖骨が美しく、飽きることなく指で辿っていた。
 汗が滲むこめかみに、彼が唇を寄せる。見上げた彼の瞳は、下弦の朧月のように優しげだった。
 私の薬指も、月光に照らされ鈍く光りを放つ。
 終わるのだ。この夜は、やがて終わる。
 何もかもを忘れたくない。この目にしっかりと刻みつけたい。
 彼は、こんな想いで私が瞳を覗き込んでいると、見抜いていた。
 そう、始めから終わりに至るまで、彼は私の全てをわかっていた。
「あなたはこれを……一夜限りの過ちだと思っているでしょう」
 隠していた気持ちを見透かされ、少なからずうろたえた。
 彼にはどうして、私の何もかもがわかってしまうのだろうか。黙ってひとつ、頷くことしか出来なかった。
「僕は、そうとは思っていませんよ」
 俯く私の髪を、彼は指で梳く。どこまでも優しい指に、つい甘えてしまいたくなる。
「……無理です……」
「無理なものか」
 彼は私の消え入りそうな声を、即座に否定した。
 そして、髪に唇を埋めながら穏やかに語り出したのだった。
「両親の反対を振り切って十八で上京して以来、東京で身を立てることこそが人生の成功だと、がむしゃらに働いてきました」
 優しい声。恵みの雨のごとく私に降り注ぎ、私を潤す、優しい声。
「でもね、違っていたことに気が付いたんです。僕はただ、旨い料理を振る舞って、それを食べる人の喜ぶ顔が見たいだけだったんですよ。東京に拘る必要はどこにもないと、十年経ってやっと気が付けました。自分は生まれ育った土地を、捨てられない人間なんだということも」
 彼が云わんとしていることが何かわかり、涙が抑えられなくなっていった。
「そりゃあ両親には言われましたよ。それ見ろ、私らが十年前に言った通りじゃないかって。でもね、人間って間違えないとわからない生き物なんですよ。その 時は間違ってないって信じたんだから、責められても詮無いことなんです。それで気付いたら、その時にやり直せばいい。一度自分で選んだのだ、なんて意地に なって、過去の自分に操を立てる必要なんかどこにもないんですよ。わかりますか? 気付いたら、最初の位置まで戻って、やり直していいんです」
 彼の手は、私の髪を滑る。限りなく優しく滑り続ける。彼の肩に、私の流した涙が貯まっていく。
「僕は待っています。あなたが振り出しに戻ってくるのを。僕らが生まれ育った田舎で、ずっと待っていますよ」





 翌日、遅い朝食を共にして、彼と連れ立ってアパートを出た。道すがら見つけた文具店で、彼は小さなアドレス帳を一冊買った。そのYのページを開き「新しい店の電話番号です」と、自分の名前と一連の数字を書き込んで渡してきた。
「僕はここにいます。あなたが振り出しに戻ることの、力にならせて下さい」
 私は、差し出されたそれを、大切に受け取った。

 列車の扉に遮られても、彼はその場から離れようとしなかった。やがてゆっくりと彼から離れていく私を追いかけ、ホームの端で留まった。彼は最後まで、さよならとは言わず、手を振りもしなかった。
 彼の姿が見えなくなった頃、私の決意は、ようやく、固まっていた。




 ―――結局は、それから離婚が成立するまで二年もの歳月がかかってしまった。
 こうして列車に揺られていると、長い長い夢でも見ていたかのように思う。
 母に全てを話し理解を得るのに、まずは時間がかかった。私に全く落ち度がなかったとは言えまい、互いに反省してやり直すことは出来ないかというのが、母の望みだった。至極尤もな望みだと思ったが、私には訊けなかった。
 その母をやっとのことで説得し、桧山に離婚を切り出してからが本当の地獄だった。やむことない暴力と強姦。離婚届を置いて実家へ帰っても連れ戻され、あるときは監禁紛いなことまでされた。母に怪我を負わせてしまったこともあった。幸いにも軽傷で済んだが、狂気に駆られた桧山の姿に、警察へ駆け込めばどんな報復があるかわからないと恐れた。この王国の王として君臨することを当然としている桧山自身に、奴隷を解放すると心から宣言させなければ、全ての解決にはならないのだと悟った。

 私は、あの日貰った彼の愛に、報いたかった。しかし幾度も諦めに支配され、無気力になった。
 やはりあの夜、彼に抱かれる前に決めていたように、思い出だけを胸にして、桧山に隷属していくのが私の人生なのかと。何をどう足掻いても、私にはこの王国の奴隷として生きる道しか用意されていないのではないかと。
 そんなときこのYのページを見つめると、彼のくれた言葉が鮮明に蘇るのだった。

 無理なものか。
 振り出しに戻ってもいいんです。

 いつか戻れる日が、この私にも来るのだろうか。私さえ諦めなければ、それは叶うのだろうか。
 絶望の最中にあっても、一筋の光りのごとく、その言葉は私を照らした。このアドレス帳は私の、希望であり、癒しであり、勇気だった。

 時を同じくして、桧山の王国は外側からも崩れようとしていた。それがはっきりと私の目に映ったのは、一年が経過する頃だった。
 あの師走から、頓に出張が多くなった。初めは二、三日だったものが、回を重ねるごとに期間が長くなっていった。出張先は不定だった。敏感な彼はそれに、失脚への序曲を聴いていた。
 余裕を無くした男は、日増しに人前でも苛立ちを隠せぬようになっていった。メッキが剥がれ、本性を剥き出しにしつつある彼に、東京は手加減を知らなかった。一年半の後、桧山の転勤が決定した。事実上の左遷だった。

 奴隷の執拗な反乱と、国外から見た権威の失墜に、ついに王はこうべを垂れ、冠は転げ落ちた。
 十月の初めだった。

 冠を失った桧山を見て、私は思った。彼もまた、私と同じく心弱い人間だったのだと。
 そして母の言うように、彼を王国の王としてしまった原因は、少なからず私にもあったのだ。
 破り捨て続けた離婚届に黙って判を押し、すまなかったと差し出されたとき、今ならばもう一度この人とやり直せるかもしれないという考えが頭をよぎった。しかし、愛情からくる想いではなかった。哀れみと、情。哀しいほどに、その二つの感情だけであった。
 桧山はそれに縋ることを良しとしなかった。また私も、これらの感情だけでは彼と共に「生きて」いくことは出来ないと知っていた。東京を後にする背中を見たのが、最後だった。




 もうすぐ、かつて住み慣れた街へ着く。彼のいる街へ。
 私は小さな建材屋に職を得ることが出来た。社長夫妻は出戻りになる私を白い目で見ないばかりか、協力は惜しまないと申し出てくれるような、心温かい人たちであった。その言葉通り、母と二人で住めるような住居を用意してくれた。腰を悪くしてしまった母に代わり、今日の引っ越しまで手伝ってくれるという。改札口を出たところで、落ち合う予定だった。

 彼には、一度も連絡をしていない。これからも、この電話番号を回すつもりはない。

 瑞枝の幸せこそが、私の幸せだと言った母。
 幸せですかと問うた彼。
 あの頃はわからなかった「しあわせ」が、今の私には、わかる。
 巡り逢うべき人に巡り逢うことこそが「しあわせ」なのだ。ならばこの胸に、あの日咲いた花が生き続ける限り、私は幸せなのだ。
 彼にまた、諭されるだろうか。もっと貪欲になっていいのですと。
 しかし、二年が経っていた。それも、ただ一度きりの夜からの、二年。彼ほどの人ならばきっと、私の他に「しあわせ」を得ているに違いなかった。それを壊すことは、どうしてもしたくなかった。
 彼が近しい空の下にいる。
 それだけで私は、日溜まりを感じることが出来る。
 胸に咲く花に、太陽と水を、永久に恵み続けて貰えるのだ。

 列車がホームへ滑り込む。私はアドレス帳を静かに閉じ、鞄の中に丁寧に仕舞った。
 ただ今帰りました。
 心の中でそう呟きながら、列車を降りた。

 改札口が見えてくる。新しい生活が待っている。振り出しへ戻るのはもう間もなくだ。私の心にだけ誓った彼との約束が、果たされようとしていた。

 そこで、足が止まった。

 改札の向こうには、多くの人が行き来していた。その人影が尽きた一瞬、私の目に飛び込んできた懐かしい姿に、目を疑った。

「なぜ……」
 進もうとする足が、空を踏んだ。視界が揺れて、滲み出した。私を見つけたのか、切符を切る駅員のすぐ傍まで駆け寄ってくるのは―――。
 もう記憶の中でしか見ることのないと思っていた笑顔が、あの日とまるで変わらない笑顔が、私の名を呼ぶ。
 彼が、私の名を呼ぶ。
「瑞枝さん!」

「どうして!? どうしてここに……」
 幻ではなかった。私を抱き留めた彼は、あの夜と同じあたたかさと情熱を、惜しむことなく私に与えた。
「社長夫妻は、僕の店のお得意様なのです」
 見上げた彼の瞳も、涙に潤んでいる。
「新しく雇うことになったという女性の話に、あなたの名前が聞けたときの僕の驚きが、わかりますか?」
「……!」
 呼吸が、止まるかと、思った。
 彼しか目に入らなくなっていく。
 周囲の人たちも、ここがどこであるかも、忘れつつあった。
「僕は三度偶然に恵まれました。一度目は桧山氏があなたを店に連れてきてくれた。二度目は靴擦れに困るあなたを見つけた。三度目はこれです。偶然が三度重なったら、それはもう、必然ですよね……!」
 持っていた鞄が手から離れた。彼が苦しいほどの力で私を抱きしめる。私も有らん限りの力で、彼に抱きついた。
「あなたが僕を頼ろうとしてくれなかった恨み言を、これからたっぷりと聞いて貰いますよ」
 陰ることのない日溜まりが、私を包んでいた。
 その中はあたたかい。限りなく、あたたかい。
「今度こそ答えて下さい。幸せですか……?」
 花が、彩を深めていった。
 その香りは私を酔わせていく。幸福に、酔わせていく。
 春を見上げる。私の為だけにいてくれる、春を。
「はい……!」

 私は再び「しあわせ」を得た。
 刹那に終わることのない、続いていく「しあわせ」を―――。


                ― 了 ―






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