首筋の痛みは、わたしを少しだけ冷静にさせた。振られたてだから、落とし易いと思われているのでは。口説くにしてもタイミングが悪すぎる。
「泣いてたの知ってるんでしょ? 失恋したばかり。そんな気持ちになれないのよ」
「ずっと見ていて悔しい思いをしていたから。今しか、ないと」
 今しか、ない。
 短い言葉がリフレインする。わたしにそこまで想われる価値はないのに。
 落ち着かせるように、幸野の手が髪を撫でる。その優しさに誰かを思い出すから、今だから、イヤ。
「夏目さんの気持ちが、簡単に手に入るなんて、思ってませんよ」
 耳元で繰り返される囁きは、荒みかけたわたしの心にも甘く響いた。幸野が呟く度にそよぐ、呼気のこそばゆさと相まって、じわり、心に澱を落としていく。
「時々は思い出して貰えるように、痕をつければいい」
 唇が耳に触れるほど近づき、ぞわっとする慄きが走った。
「小さい、耳たぶですね」
 耳たぶが湿った唇の中に吸いこまれ、舌で嬲られる。
「ひゃ……」
 歯で軽く噛まれた後、ちゅるんと水音を立て、幸野の口に含まれていた耳が開放された。春の夜気がスカートの裾をはためかせる。唾液で濡れた耳もひんやりと、そこだけ体温が下がった気がした。
「バカね、痕なんていつか消えちゃうのに」
 時間が経てば消えてしまう。いつまでも一箇所に留まってはいられない。あの人と、同じ。
 幸野の唇はまだ耳元にあり、何かをやらかしそうな気配があった。
「消えたら、また付ければいいだけです」
 事も無げに言うと、唇が首筋を滑り降りた。シャツのボタンがひとつ、素早くはずされる。ブラが見えそうなギリギリの所まで、襟元がくつろげられた。
「なっ……!」
「大声出すと、誰か来ちゃいますよ。こんなとこ、近所の人に見られたいですか?」
 恥ずかしさに頬が熱くなった。はだけられた胸元を風が撫でる。誰かに見咎められたらという恐れで、背後を振り返る。
 人も車も、今は通っていない。既に玄関の灯を落とし、寝静まっているように見える一戸建て。少し遠くにある集合住宅の窓には、何箇所か明かりが残り、見える筈もない視線を感じてシャツをかき合わせる。
「危ない目に遭わせるつもりは無いので、安心して」
 そう言われて、はい、そうですかと、頷ける訳もなく。
「……信じらんない」
 呆れるのにも構わず、シャツを掴んでいた手を握り、そっとどけた。再びシャツがめくられ、幸野が顔を伏せる。吐息とも鼻息ともつかぬ荒い息遣いが、肌に降りかかる。冷静な口調とは裏腹な、興奮の度合いを表していた。
 片手を握られ、背を抱き締められている今の状態は、傍からは恋人同士にしか見えないだろう。熱い吐息を感じながら、薄茶色の柔らかそうな髪を見ている。すぐ近くにある心臓が、鼓動を早めた。

 そろりと唇が動いた。素肌に少しだけ湿った唇の感触。ブラを縁取るレースの辺りを、行きつ戻りつして、小高い丘をなぞっている。焦れるほどのゆっくりさに背筋が震え、目を閉じた。
 ここで止まって欲しいのか、先に進んで欲しいのか、自分でもよく分からない。けれど体の内を、とろとろ炙られているような昂ぶりがある。
 肌の上を擦る動きに違和感を覚えた。唇ではなく、なにか硬いモノが触れている。瞼を開くと、幸野の歯がブラの端を咥え、押し下げようとしていた。
「やめてっ」
 此処で脱がされるのは、とんでもなくまずい。蒼ざめて抗議するのも意に介さず、夢中で顔を伏せている幸野が、この時はじめて怖いと思った。
 ブラが下げられ、少しひしゃげた形で片方の乳房がまろび出る。公園の灯りに照らされた胸の隆起は、自分でも驚くほど白い。幸野は顔を離し、血走った目で食い入るように見つめている。春の夜風と視線とに晒されて、その先端が見る間に固く尖っていく。
 こんな乱れた姿を、誰かに見られるかもしれないのに、甘く疼いた気持ちになるのは何故だろう。
 幸野が顔を伏せ、膨らみの谷間近くを強く吸った。
「あ……」
 小さく喘ぎが漏れた。背を反らした拍子に、公園の植え込みで咲き乱れる、白い花が目に留まった。奔放な春の息吹を感じさせる雪柳が、今を盛りと四方へ枝を伸ばしている。
 ちゅぱっと高い音を立て、吸いついていた唇が離れた。乳房の中ほどに、薄紅い染みが残される。
「痕ついちゃったね。これ、しばらく消えないよ」
 恨みがましく言うと、
「その間は忘れないでしょう。今日のこと」
 幸野は満足げに笑った。

 遠くで車のエンジン音が響く。あられもない今の姿に、身が竦んだ。はだけた胸を隠すように、幸野が体を寄せる。そのまましばらく動かずにいた。
「大丈夫、こっちには来ないから」
 その言葉で緊張が解ける。危ない目に遭わせないと言ったのは、どうやら本当で、幸野は周囲に気を配っている。少し安堵して、それから不安になる。
 風がまた吹いて、剥きだしの胸を撫でた。ちりっと先端がしこる。そこに懐かしい愛撫があればいいのにと思い、そう考えてしまう自分に幻滅した。
「夏目、さん」
 幸野の声が少し震えている。
 息を大きく吸う音がして、体を屈め、尖った先端にしゃぶりついた。
 じんとする刺激に、足元がふらついた。ちゅくちゅくと捏ねる舌が、忘れがたい官能を呼び覚ます。駄目だ。幸野をあの男の身代わりにしちゃいけない。
 両手で幸野の肩を押し返そうとして、できなかった。唾液をまぶされた乳首は、時に痛いほど不器用に強く吸われる。喘ぎをこらえ、肩にそっと手を置くと、臆病に思えるくらい弱々しく先端を弄る。
 がむしゃらな勢いに混じる優しさが、とても幸野らしい。柔らかく唇に含まれている蕾が、焦れるように疼き、両手で幸野の頭を抱えた。
「んっ!」
 舌先が跳ねるように乳首を捉え、小さく声が漏れた。それだけで蜜が溢れてくるのが分かる。幸野がこちらを見つめ、声を出しちゃだめだよと、指でわたしの唇を覆う。
 誰かに見られちゃうかもしれない? すれすれの危なっかしさが怖くて、そして劣情を煽った。何かあったら、きっと幸野が守ってくれる。そんな勝手な目論みもある。
 胸元から響く執拗な水音がいやらしく思え、誰かに聞かれはしないかと瞳を巡らした。ちろちろと動く舌は懐かしい愛撫に似ている気がして、少し胸が痛い。それでも嬲られるたびに、塗り替えられたらいい。
 ずるい望みを抱えながら、幸野の指を舌先でなぞった。



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