テーブルに缶を置くと、急に電話が鳴った。あり得ない事だけど、もし万が一、彼だったらとディスプレイを見つめる。
 残念、はずれ。浮き上がった気持ちが萎む。
「夜分遅くすみません。幸野です」
 電話の向こうで目一杯、恐縮した声を出しているのは、同僚で後輩の幸野だった。
「うん。遅いね、すごく」
 日曜の夜、十時をまわったところ。軽い嫌味に、回線の向こうが固まっていた。怒っているんじゃない。去っていった彼の声が聞こえて来ない事に、わたしが勝手に拗ねているだけ。普段から礼儀知らずではない幸野がかけてくるなら、よほどの事態なのだろう。
 相手の出方を待つ沈黙が、しばし。
「あの……」「それで……」
 ふたりとも同じタイミングで言いかけて、ぷっと吹きだした。
「いいよ、起きてたんだし。なにか急ぎの用だったんでしょ。話して?」
 促すと、ホッとした様子で話し出した。
 幸野が明朝に必要としている資料を、わたしが家に持ち帰っているのだと言う。朝に渡して貰えればいいと思っていたが、休日出勤をしながら準備をしていたら、明日はわたしが直行なのに気づいたので、と。
「M駅でしたっけ。幸野さんが住んでるとこ」
「はい」
 最寄り駅から三駅、車で走れば十分ほどで着いてしまう。が、まだ酔いの残っている状態ではそれもままならない。電車で届けるか、タクシーを拾うかと逡巡する間、また沈黙が続いた。ふと幸野には普段からこういう所があるなと思った。穏やかに見守られていると、感じる時がある。
「遅い時間ですが、これから取りに伺ってもいいですか?」
「助かったぁ。実は飲んでいて、出かけるのが億劫だったの」
 つい本音を漏らすと、「だと思ってました」と言って、クスクス笑った。
「場所わかります? N公園の近くまできたら電話して。下まで降りていくから」
「了解です。ところで夏目さんは、笙がお好きなんですか?」
「ううん、たまたま。でも……キレイな音ね」
 付けっぱなしのテレビからは、か細く、それでいて包みこむような笙の音が流れている。さっきまでの滅入った気分が少しだけ和らいでいた。



 幸野からの電話は思ったより早く、休日のせいか道路も空いていたと言う。普段着にコートを羽織って外に出ると、生暖かく感じるぐらいの風が吹いている。雨が近いのか、空気には僅かに土の匂いが混じっていた。
 公園脇の道に、所在なげに立っている幸野の姿があった。こちらを認めると、
「お休みのところ、すみません」
 縮こまって会釈をする。
「大丈夫よ。はい、これでいいのかな」
「ばっちりです。ありがとうございます」
 手渡した資料を確認しながら、独り言のようにぽつりと呟いた。
「もう、泣かないでくださいね」
「えっ?」
 不意の事で胸を突かれた。
「目が少し赤いです。それと……さっき電話の時、泣いてるみたいな声だったから」
「気のせいよ」
 わたしの何を知っていると言うのだろう。労ろうとする幸野の気持ちを、素直に受け止められない。心のうちに踏み込まれるくらいなら、鎧を着こむほうが楽だ。
「じゃ、お疲れさま。また明日」
 素っ気なく言って踵を返した。幸野、ごめん。あなたは全然悪くないのに。可愛げのない自分が嫌になる。でも覆い隠していないと、壊れてしまいそうだから。
 目の前に白い指先が一瞬見えた。そのまま背後からわたしを包む。抱き締めようとする幸野の力は強く、身動きが取れなかった。
「何の冗談よ。人通りが少なくたって、大声だしたら誰か来るわよ」
「今ここで帰したら、夏目さん、また飲んだくれて泣くでしょ」
「余計なお世話っ……」
 首だけ捻って睨みつける、つもりだった。幸野の顔が至近距離なのに息を呑んで、わたしを見つめる眼差しに、言葉を失った。たじろいで目を逸らしたくなる。ひたむきな視線を、痛いほど感じる。

 体を包む腕が緩んだ。ゆっくり向き直ると、二本の腕がまた閉じこめる。額を肩に乗せ、トクトクと鳴る鼓動を聞く。幸野の腕の中は、不思議と居心地が良かった。
「給湯室で泣いてましたよね」
「見られちゃってた……か」
「あんな泣き方はして欲しくないので」
 一度だけ職場で泣いた事がある。彼が去った喪失感に耐え切れず、歯を食いしばっても涙が零れでた。触れられたくない苦い記憶だ。
「恋人になってくれと言ったら……怒りますか」
 どくん。心臓が跳ねる。
 知っていたのに、今までずっと見ないようにしていた、幸野の気持ち。さっき包まれていると感じたのは、笙の音だけではなかった。
「怒ったり、しないけど」
 誰かに寄り添うのは暖かい。肩の力がふっと抜けた。嗅ぎ慣れたタバコの匂いを探して、スーツの胸に顔を埋める。
「…………あ……」
 何をやってるんだろう、わたしは。幸野はタバコを吸わない。今はいない男の香りを幸野に求めるなんて、大ばかものだ。
「待って、夏目さん。こっちを見て」
 怯えて後ずさるのを、幸野は強い力で引きとめた。今のわたしは、亡霊でも見たような顔をしているだろうか。目の前に立つ男に寄り添える資格など、これっぽっちもない。
 とっさに掴まれた二の腕が痛かった。痛くて当然だ。わたしは幸野を、別れた男の身代わりにしようとしたのだから。
「だめなの……まだ、駄目なのよ」
 息苦しいほどの視線から逃れたくて、駄々っ子のようにかぶりを振った。
 歯軋りしそうに頑なだった、幸野の頬が緩む。
「忘れろなんて無理言いませんから。一緒にいられるだけで」
 また穏やかに包まれる。背中に回した手が、わたしを宥めるようにトントンと叩く。その仕草は幼子をあやす母親みたいで、少しずつ気持ちが凪いでいった。あやされているわたしは、だんだん小さく縮んで卑小になる。
 幸野の胸はとても暖かくて落ち着く。けれど、それを甘受するのはいけない事だと思う。
 顔を上げて幸野を見つめた。微笑んでいるようにも、苦痛に耐えているようにも見える、不思議な表情だ。やっぱり駄目だよと言おうとして、胸が苦しくなった。わたしの顔も、泣き笑いになっているのかな。
 両頬が、幸野の手で挟まれた。ひんやりした掌が気持ちいい。
 切羽詰まった様子の、幸野の顔が近づく。キス、されるのかもしれない。
 キスしたいのかもしれない、わたしも。
 でも、唇を、舌を、また誰かと比べてしまったら?
 目を閉じる寸前で、つと顔を背けてしまった。幸野の唇が頬に触れ、通り過ぎる。頬を挟んだ手にわずかに力が籠もり、溜め息を吐いたような息遣いが聞こえた。
「ごめ……ん」
 謝ろうとしたのに、わたしの語尾は小さく震える。
「夏目さんが謝る必要なんて、ありませんよ」
 どこか怒気を含んでいる。怖さではなく申し訳なさで、幸野と目を合わせられない。幸野の隣で微笑むのは、わたしのような後ろ向きな女じゃなく、もっと朗らかなひとがいい。だから離れなくては。片頬がすり合うほどの近さで、そんな事を考えていた。
 身じろぎして体を離そうとするのと、幸野が顔を伏せるのとが、ほぼ同時だった。
 首元に押し当てられた唇の感触に、びくりとする。
「ひっ……」
 くすぐったくて、ざわざわと皮膚が総毛だつ。
「唇へのキスは、駄目なんですよね?」
「そ、そういう意味じゃ……んっ!」
 逃げようと仰け反った喉に、降ってきたキス。今度は強く、強く吸われる。シャツの襟元、隠れそうで隠れない場所だ。
「痕がつくってばっ」
 抗議の声をあげると、やっと離れていく。吸われた痛みで、肌がジンとする。
「後で思い出して貰えるように、付けてるんですから」
 悪戯っぽく幸野の瞳が煌めいた。



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