雪柳



 うたた寝をしていたらしい。
 BGM代わりに付けていたテレビは、いつの間にか舞台劇の中継に変わっていた。
 まだ二日酔いが残っていて、頭がぼんやりとする。明け方まで飲んで、吐き気と頭痛で夕方頃に起きた。迎え酒を飲んでるうちに、また寝てしまった。カーテンの向こうはすっかり暗い。どうやら一日を無駄に過ごしたようだ。
 最低。女としての人生終わってる。

『どうあっても、わたしと一緒に生きては下さらないと……仰るのですか?』

 舞台劇は愁嘆場に差し掛かっていた。ドレスの女が、立ち上がろうとする男に語りかけている。動きのあまりない舞台を、目だけで追っていく。切々とかき口説く女優のセリフは、もう耳に入らなかった。忘れようとしても脳裡から消えない会話が、テレビの映像に重なって聞こえた。


「いま、なんて言ったの?」
「君とは結婚できない。だからこれ以上一緒にいられないと、言ったんだ」
 声はちゃんと耳に届く。でも意味が分からない。
「正月に帰省しただろ? あのとき彼女と、あらためて結婚の話が出てね」
 なに……何を言ってるの、この人は。
「そういう事なんだよ……付き合って五年になる」
 回転を止めていた頭に、言葉の意味がゆっくり沁みてくる。言ってやりたい事が山ほどあった。沢山ありすぎて、どれから話して良いか検討もつかない。口を開けたり閉じたりして、酸素を取り入れるので精一杯だ。
 彼女って誰よ。そんなの知らないし。
「だから、君とは結婚できない。この半年間、楽しかったよ」
 なんでこんな、胸のつかえが取れたみたいな、清々しい笑顔で話せるんだろう。わたしとの付き合いは、たった今から、楽しい思い出に変わっちゃったんだろうか。そんなの早すぎる。
 少しずつ視界に霞がかかっていく。淡々と語る彼の顔が、よく見えない。
「やり直せないのかしら。わ……わたしに、悪い所があったら直すし」
 ここは二股かけてた男のほうを、責める時じゃあないのか。付き合い始める前に言ったはずだよ。二股はイヤだって。
 ポタンと温かい雫が、手の甲に落ちた。泣いているわたしと目を合わせずに、彼が続けた。
「朝、電話がかかってきた事があったよね。あれ、彼女からのモーニングコールだった」
ガーンと殴られたようなってのは、こんな感じだろうか。だんだんと耳が聴こえにくくなる。

 いつも抱かれるのは、彼の部屋だった。すぐ帰らずに暖かい腕の中でまどろむ時、朝早く電話が鳴っていた。「お袋からだ」そう言って笑ってたけど……違ったんだ。体を貪った女の隣で、郷里の恋人からの電話に応えていたのか。
 残酷な現実から目を逸らすように、ぼんやりと彼の部屋を見回した。テレビの上、あんなところに写真立てなんて、あったっけ?
「君が来るときは、いつも隠してた。ごめん」
 訊ねる前に答えてくれた。写真立ての中、生真面目に唇を引き結んだ彼の横には、やさしげに目を細める髪の長い女性がいた。
 はじめまして。あなたが、そうなんですね。
 「ごめん」の三文字では済まないけれど、どう謝られても事態は変わらない。
 わたし、鈍すぎだ。最悪。
 溢れてくる涙を指先で拭った。彼の顔がよく見えなかったから。
「今まで、君と一緒にいて本当に楽しかった。ありがとう」
 肩の荷を下ろしたような表情で微笑まれて、ゲームオーバー。それでおしまい。

 回想の旅から戻ってくると、テレビに映る舞台は暗くなっていた。中央にピンスポット、袖に去っていく男。ドレスの女はソファに崩れ落ち、縋りつくように片腕を伸ばしている。
 女々しい。未練たらしい。辛気臭い。チャンネルを変えようとリモコンを手に取った。
 ちがう。未練たらしいのは、わたしの方だ。
 すっきり別れられたら、いい思い出になったろうに。写真立ての彼女は遠く彼の郷里にいて、わたしはすぐ近くにいる。この距離はわたしにとって有効かもしれないと、こずるい考えが湧いた。
 理性では駄目と分かっていても、夜になると寂しさが募る。諦めきれずに彼の姿を追いかけた。
 あの日、清々しい顔で別れを告げた彼が、苦虫を噛み潰したように欲望をぶつける。
「なんでそばにいるんだよ。いたら抱いちまうじゃないかよ」
 苛立たしく呟いて、わたしの中で精を放つ。そんな関係が数度続いた。
 そして二週間前、彼に電話が繋がらなくなった。アパートの部屋は、もぬけの殻だった。
 もう会えない悲しさと同時に、彼をそこまで追いこんだ自分が情けなかった。二股かけられてフラれ、未練がましくつきまとって男に逃げられた女。それが、わたしだ。最低最悪。どこをどう切ってもロクなもんじゃない。情けなくって涙も出やしない。

 ぼんやりしてる間に、テレビは邦楽に変わっていた。スイッチを切った後の静寂が怖くて、手の中でリモコンを玩ぶ。音楽をかけに、立ち上がるのも面倒くさい。
 喉がひどく渇いていた。テーブルの上にあった、飲みさしの缶ビールに手を伸ばす。これで、二股フラれストーカー女に、アルコール依存症まっしぐらが追加される。
『君とは結婚できない』
 なにバカ言ってんだか。結婚なんて考えた事なかった。
『いたら抱いちまうじゃないかよ』
 いいんだって。それでも一緒にいたかったんだから。
 口に運んだ缶ビールは、ほとんど中身がなかった。こんな時に限って、冷蔵庫に買い置きがないマーフィー。気のぬけたビールを一口だけ啜りこむ。
 エッチな事に詳しそうな顔をして、男のヒトのものを飲むのは、彼が初めてだっだ。舌に感じる微かなビールの苦味が、あの時の味みたいで、鼻の奥がツーンとした。



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