期限のない約束なんて、実行されるかどうかは曖昧なものだ。ましてそれが、ベッドの中で交わされたものならば。

『あなたに……見せてもいい』

 そんな会話など無かった事にもできる筈なのに、自分で出した答えに縛られていた。
 排泄行為とは、無防備でごく個人的なものだ。他人の目に触れる機会など、まずあり得ない。もし放尿を見せてしまったら、その後も、今までと同じでいられるのだろうか。何か大切なものを捨ててしまうような気がして、一度は定まりかけた気持ちがグラグラと揺れ動く。
 男が本気で考えているかどうかを、会話の端々や行為の最中に、私は探ろうとした。
 でも、なんて聞いたらいい? どう切り出したらいい?
 それを考えると、心が怯えて縮こまってしまう。
「どうした? 何か困ったことでもある?」
 逡巡が顔に出てしまっているのだろう。不安げな私の表情に、男が反応する。
「ううん、別に」
 約束を覚えているかどうか、聞けるはずも無かった。口に出して訊ねることは、そんな願望を持っていると自ら認めてしまう事になる。
 鳶色がかった男の瞳は、覗きこんでも何の答えも映し出さない。それでも見せる機会はいつか必ずあるという、確信ばかりがどこかにあって、私の気分を落ち着かなくさせる。
 足の届かない水面に浮かんでいるようで、心はいつまでも宙ぶらりんだった。


 放尿を見せるのは露出の一種だと考え始めたのは、この時期だ。見られる事を想像するだけで濡れてしまった私には、そんな隠された願望があるのだろうか。
 ネットで見る露出プレイの体験談は、パートナーに命じられて下着をつけずに外出し、言葉で辱められたり、周囲の反応を伺ってプレイに反映したりする。一人きりで危うい格好をして、ぎりぎりのスリルを楽しむ露出は、告白文を読む限りなら、ひどく興奮を覚えた。
 わからないなりに、小さな実験をもうひとつしてみよう。それもたった一人で。
 スリルはそのままリスクでもあって、どこまで安全に試せるかが、こわごわと一歩を踏み出すための条件だった。きわどい格好などしなければいい。私が感じたいのはごくささやかな興奮で、見知らぬ誰かを挑発するつもりは無いのだから。最初のハードルは、低いほうがきっと飛び越えやすい。
 何十年かに一度、流星群が接近するというニュースを見て、ひとりきりの冒険をするのは、その日に決めた。昼間より夜のほうが、恥ずかしさが紛れそうだと思った。


 夜半にシャワーを浴びた。流れ星を見るには日付が替わる頃がいいと聞き、タイミングを合わせて準備をする。バスタオルを使った後、いつものように下着をつけようとして、手を止めた。
 そうか、必要ないんだ。
 シャツに手を通すと、素肌を滑らかに走る生地の感触が、いつもと違って新鮮に思える。乳房に布が触れ、その先端を擦るわずかな刺激に、皮膚がぴりりと張りつめた。
 ボトムに何を着るか。この時まで私はずっと迷っていた。スカートを選んで無防備な股間を外気に晒す、その決心がどうしてもつかない。元より危険は回避するつもりだった。実験は小さいどころか極小レベルになりそうだ。諦めにも似た気持ちで、ジーンズのボタンを留めた。
 鏡に映して出来上がりを眺める。なんの変哲もない普段着。膨らんだ胸の頂点で、乳首だけが興奮を顕わすように尖っていた。白いシャツに透けて、うっすらと乳輪あたりの、色素の違いまで見てとれる。下腹部や胸元を隠す、たった一枚の薄い布が無いだけで、こんなにも心許ない気分になるのが不思議だった。
 ジャケットを羽織って外へ出る。傍から見たら、ブラやショーツを着けていないとは誰も気づかない。ひとりだけで小さな秘密を抱えている。そう思うと、恥ずかしさとは別の昂揚した気持ちが湧き上がり、体が少し熱くなった。


 もう一つの目的を忘れそうになる自分を叱咤して、自転車のペダルに足をかけた。ゆっくり空を見上げていれば流星群は苦もなく見えるらしいが、より条件の良い、街灯の少ない場所まで行こうと思ったのだ。車道を避けて川沿いの土手を選ぶ。同じように星を見に行こうとしているのか、深夜にもかかわらず対岸には人の姿が見えた。
 ペダルをグッと踏みこむと、違和感があった。股間の、ちょうどスリットのあたりに、デニムの縫い目が当たる。普段は気にならない生地のごろつきが、陰部を刺激する。サドルに腰を落とすと、その感覚はいちだんと増した。自転車を漕ぐ事によって固い布の肌触りは左右に振られ、敏感な部分を震わせるのだ。路面の僅かなでこぼこがサドルに伝わり、割れ目に隠れた蕾が圧迫される。
 ガクガクと段差を乗り降りすると、ぐりっと花芽が押し潰された。漏れそうになる声を必死で耐えた。体の中で小さな火花が散り、じわりと蜜が溢れた気がした。慌てて急ブレーキをかける。肌寒いくらいの気候だが、額に汗を掻いていた。
 息を整えていると、正面から小さなライトが近づいてくる。二輪車と歩行者しか通れない、幅二間足らずの狭い道である。立ち止まっている私を不審に思ったのか、自転車に乗った人影が減速する。今この瞬間にも、デニムの奥では濡れているかもしれないと考えると、耳の付け根まで赤くなっていく。
 川面を眺めるフリをして顔を背け、近づく自転車をやり過ごそうとした。途端に風をはらんでジャケットが翻る。秋の冷気が懐に忍びこんで、シャツの上から胸の尖りを刷くように撫でた。暗い夜道なので人に見咎められる可能性は少ないが、もしかしたらという一抹の不安がある。ドキドキする胸の鼓動は収まらず、服のボタンを指先できつく握り締めた。
 肌が粟立つのは、寒さのせいばかりではなかった。シャツの中で乳首は固くしこり、恥ずかしさで居たたまれない。周囲の人に気づかれてしまったらという興奮より、今はひとりぼっちだという危うさの方が勝った。
 何事もなく自転車が通り過ぎていっても、暫くは固まったようにその場所に立ち尽くしていた。自分からやってみようと思ったのに、傍に居るべき人がいない心細さで、私の背中は震えていたのだ。


 時折、薄雲に遮られながらも、夜空に細筆を走らせたような星々のショーを眺めた。ぼんやり宙を見上げているうちに、得体の知れない昂奮も、心細さも、次第に薄まっていく。遠目でそれと分かる事のない露出なら、普段と何ら変わりはないのだ。
 空の闇にひときわ大きな火球が走り、向こう岸から「見えたー!」と歓声があがった。それを潮に引き上げる事にした。冷えきった手足を軽く曲げ伸ばしして、護岸ブロックから立ち上がる。
 自分には、さして強い露出願望も無いとわかって、どこか安堵する気持ちもあった。望まれるなら見せることは厭わない。だがそれは、あくまで受動的なものだ。もし、男が望んでいるなら叶えたい。相手次第なようでいて、自分の殻を破る言い訳を他に求めている。決して、慎ましやかでも羞恥心が強いのでもない。私はズルイのだと思った。
 雲の切れ間から傾いた三日月が覗く。唇の端を吊り上げ、こちらを嘲笑っているような、そんな形の月だった。





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