桧山に握りつぶされたかと思った花の蕾は、私の中で密やかに息づいていたのだ。か弱く思った蕾は、意外にもしなやかな強さを持って、私に根を張りつつあった。
 だが、それで私に与えられた人生が変わるわけではなかった。
 彼ともう一度会うなど、それが桧山に露顕したときのことを考えるだけでも恐ろしい。夫に知られずにこの家から出てどこかへ、しかも他の男の許へ行くなど、妻として最大級の過ちに思えた。迷い、考えるだけでも、犯しがたい罪だった。
 私は桧山の奴隷なのだ。奴隷が王から逃れ得るとき、それは死が訪れるときだけだ。私の頭の中に、夫を捨て、他の男と連れ添うという選択肢は存在しなかった。
 ないにも関わらず、彼への思慕は募る一方だった。私を出来損ないではないと言った彼。私に何らかの価値を見出してくれた彼。私に春を感じさせた彼。そのあたたかな眼差し。情熱的な唇はさながら、花びらを乱舞させる春の嵐。
 包まれたい、彼に。彼の腕の中で、この蕾を咲かせたい。
 叶うはずもない願いを胸に秘め、刻々と迫る告げられた期限を思って身悶え、幾日もまんじりともせず夜を明かした。

 私には、情けなくも勇気がなかった。
 一歩を踏み出すことを、どこまでも恐れていた。
 少し手を伸ばすだけで彼の手は掴めるのに、足下に口を開ける奈落に震え続けた。
 磁力と同じく、それも私の心弱さが創り出す幻だとは、この時の私には知るよしもなかった。




 そして、運命の日。
 またしても私は偶然に助けられることになる。まるで、何者かの見えない手が、お前はいつまで愚かに恐れ続けるのだと、背中を押したように。

 その前の晩の桧山は、帰宅するなり不機嫌に言いつけた。
「仙台へ出張することになった。まったくこの師走の忙しいときに……。明日の朝発って明後日の夜には帰る。支度をしろ」

 にわかに動悸が激しくなった。
 桧山が家を留守にする。家を空けた日の桧山は必ず出先から電話をしてきたが、私が就寝する夜十時頃のことだ。その電話を取った後ならば、翌日の夜まで桧山から解放されることになるまいか。
 諦めの中、突然降ってわいたような好機に私の心は逸った。
 この機を逃せば、二度と彼と相見えることは出来まい。
 たったひとつの蕾を咲かすことも出来まい。
 そう、たった一度なら。
 恥ずべきことに、勇気ではなかった。まさしく、魔が差した。桧山から逃げるのではなく、彼の手を取るのでもなく、桧山と共にあり続ける為に、一度きりの思い出を貰おうと、それがあればこの牢獄でこれからも生きていけると、私はしたたかにも彼を利用しようとしたのだ。

 どうか、どうか、許して下さい。
 それは夫になのか、母になのか、もしくは彼になのか。誰に対して請うているのかわからない許しを繰り返しながら、桧山からの電話を待った。出かける支度はすっかり出来ていた。あとは王に、奴隷が牢獄に繋がれていることを確認させるだけで、しばしの自由を手に入れることが出来るのだ。
 そして、解放を告げる鐘の音が鳴った。
 通話を終え、私はかつてないほどの緊張と共に、家の扉を閉めた。
 頬を刺す夜の冷たさは、少しも気にならなかった。巡る血潮が、私を暖め続けていた。




 店にやってきた私の姿を見て、彼は皿を取り落とした。すでに商い中の看板は外され、店内には彼一人であった。聞けば、店を開けるのも今日が最後で、明日からは荷物をまとめるつもりだったという。そうして今年いっぱいまで、私がここへ来るのを待つと決めていたと。あなたはきっと来てくれると思っていたと、彼は語った。

「お名前をまだ聞いていませんでした。」
 夜の街を寄り添うように歩いていた。
 風音すらしない、静かな冬の夜。二人の靴音だけが、冷えきって澄んだ空気の中に響いていた。
「瑞枝です。瑞々しい枝、と書いて……」
「……あなたにぴったりだ」
 彼が目を細める。お世辞ではない賞賛に、私の胸は痛んだ。すっかり葉の落ちた街路樹が、目に入った。
「いいえ、名前負けしています。枯れ果てた枝です、私は」
「またそんな風に言う……。あなたに罪があるとしたら、そうやって自身を貶めることだけですよ」
 彼の言葉は驚くほどすんなりと心に響き、わたしの目頭をまた熱くする。今なら、はしたなくも聞けると思った。彼が私の何に惹かれたのかを。
「わからないんです……」
 先を言い淀む私に、彼は優しい眼差しを向ける。
「あの、なぜですか? なぜそんなに、私を……?」
「ああ……どう言えばいいんでしょうね」
 そこからしばらく、沈黙のまま歩いた。彼は口に出す言葉を探しているように思えた。これがもし彼でなければ、私はその沈黙を気詰まりに思っただろう。言葉を探す彼に、ただ女を抱くための口実を探していると、誠実さを疑っただろう。しかし彼だからこそ、そうは思わなかった。思わなかったことこそが疑問に対する答えだとは、まだ気付けずにいた。
「例えば、僕はくっきりした二重瞼の女性を、美しく思います」
 私は少なからず落胆した。私の瞼は地味な一重で、華やかな目元を持った女性に劣等感を抱いていたからだ。
「それが、あなたに出逢ってから、その優しげに目尻の下がった黒目がちな一重の目が、忘れられなくなった」
 歩みをとめることなく、彼は穏やかに続ける。
「僕は小柄で、少しふっくらした女性が好みです。しかしあの日見たあなたの、ほっそりと伸びた背筋と、袖口から覗いた華奢な手首が忘れられなくなった」
 落ち着いていた胸が、高鳴っていた。今すぐ駆け出したいような、うずくまって顔を隠したいような、甘い疼きが体中を駆け巡っていた。
「だからといって、僕の女性に対する好みが変わったわけではないんです。ではなぜ、好みでないはずのあなたの容姿を、僕は忘れられなかったのか。理屈はわかりません。ただ、一つだけ確かなのは……僕は恋をしたんだと」
 恋。彼は、はっきりとそう言った。
「ねぇ瑞枝さん、あなたは僕のどこに惹かれて今こうしているのか説明できますか? 僕だって、背が高いわけでも、色男なわけでもない。どこにでもいるごく平凡で、地味な男です。それでもこれまで、僕の面影を追いませんでしたか?」
 高鳴り続ける胸を持て余しながら、私は「はい」と、小さく答えた。この甘苦しい想いは、理由や動機の及び付かないところにある感情なのだと、彼の言葉を聞いてはっきりと自覚した。密やかに、しかし圧倒的な存在感で私の心を動かしていったのは、恋という何もかも説明が付かない感情だったのだと。
「それが答えです。あなたはきっと、僕のたった一人なのです。そして、僕もまた、あなたの」
 私にまとわりついていた雲は、この瞬間に掻き消えていった。冴え冴えとした月光が、眩しい程に感じた。彼の手によって私がみつけた真実を、余すところ無く照らしているかのようだった。
 しかし私は、それを見つけながらもなお、決意を覆すことをしなかった。
 今夜一夜だけだと。
 夜が明ければ、私はまた奴隷として王の許へ帰るのだと。
 全ては遅すぎたのだ、と。
「手を繋ぎましょうか」
 見上げると、はにかんだ優しい微笑みがあった。私の指にそっと、彼の指が絡まった。冬の夜の空気に触れているにも関わらず、彼の掌はあたたかく柔らかかった。
「あなたは朽ちた枝などではない……春を待つ枝なんです、今は」
 指先から私を潤しながら、彼が言う。言葉までが、私に沁み入っていく。緩やかな暖かさに私は思わず、いずれ帰るべく運命を、忘れかけた。
「僕がきっと蘇らせます……」
 今、この時だけは、何一つ世間に憚ることのない恋人になれた気がした。しかし彼の手をそっと握り返したとき、それが残酷な錯覚にすぎないことを、私は痛烈に思い知らされた。薬指の戒めが、白金の存在が、指を絡めれば絡めるほど、冷ややかに現実を突きつける。
 ああ……! この手はいずれ、放さなければならない……!
 今触れている暖かさは朝になれば儚く消え去り、もう二度と、触れることは叶わないのだ。
 誰でもない、自らが決めたこと。そうわかっていながら、一度得た物を手離すことはいかほどに辛いかと、早くも挫けてしまいそうだった。
 私は、自分が知る以上に、貪欲であった。我知らず、強く彼の手を握りかえしていた。この小さな指輪など、忘れ去りたい。手だけではない、もっと、身体の隅々まで彼に包まれたい。桧山に対しては一度も感じたことのなかった切なさだった。あれほどまでに苦しかった行為を、心の底から切望していた。彼と、繋がり合いたいと。



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