「幸せじゃ、ないのですね」
 どれくらいそうして泣いていたか、ようやく新たな涙が収まり始めた頃、ぽつりと彼が言った。
 あの日幸せですかと問うた彼は、今や答えを聞かずとも断定していた。思いもよらず泣きじゃくってしまったとはいえ、なぜそうと決めつけることが出来るのかと、私は混乱に陥った。
 そしてにわかに、夫以外の異性に抱かれて泣いたという行為の恐ろしさに気付いた。ぐいと、彼の身体を押し返した。私の瞳に抗議の色を見て取ったのか、彼の表情が後悔に曇った。しかし、彼は私に向かい合うことをやめなかった。
「不躾なことを言ってすいません。私はその……仕事柄色んな人に接する機会が多くて、話をしてるうちに人となりがわかってしまうというか……」
 彼が言い淀んでいることが何であるかを思うと、身震いがした。
「ご主人は、あなたに辛く当たられませんか」
 私は言葉を失った。
 否定も肯定も出来ず、瞳をあちこちに揺らしながら、膝の上の手を握りしめることしか出来なかった。
「ご主人が店に来て下さるようになって数ヶ月が経ちます。親しくして下さっているうちに、前に申し上げたように、この人の伴侶は一体どんな人だろうという興味が、私の中で大きくなっていきました」
 まるで、懺悔にも聞こえる告白だった。
 私はもちろん、それを聞けるような立場ではなかったが、言葉を奪われてしまった今は、ただ彼を見守ることしかできなかった。
「本当に失礼ながら、それは憐憫にも似た感情でした。ああ……僕は、いや私は、今日のこの得難い偶然に我を失っているのかもしれません。しかし聞いて下さい。あの日から、あなたのことばかりを考えていたのです」
 目を見張った。驚きに強ばる私を、彼はせっぱ詰まった表情で見つめ続けていた。
「私は勝手な推測をしていました。きっとこの人は、家庭の中では暴君であろうと。細君はそれを黙して耐えるような人なのか、それとも、それを気にもとめない気丈な人なのか。初めのうちは低俗な興味だけで、あなたを見つめていました。はたして、あなたは前者だった。そうか前者だったか。それで終わるはずだったのです。しかし自分でもなぜかわからない、お二人が店を去ってからも、あなたのことばかりを考えている私がいました」
 彼は性急にそこまでを語ると、自らを鎮めるように大きく息を吐いた。
「下卑た哀れみであったはずの感情がいつしか、私なら、あなたをもっと……」
 コツコツと、時計の針が動く音だけが聞こえた。
 それが耳に入らなければ、時が止まったかにも思える沈黙だった。
「答えて下さい、あなたは今、幸せですか。あなたがはいと答えるなら、私のこの失礼極まりない話はどうか忘れて下さい。無礼を許して下さい」
 
 彼が、私の答えを待っていた。
 私は、進退窮まる気持ちだった。
 いいえと言ってしまったら、不幸であると認めてしまったら、私のこの先の人生はどうなるのであろうか。新たな人生が開けるとは、考えもつかなかった。今保っている平衡はなんとしても守らねばならないという強迫観念が、私には深く染みついていた。
 はい、と答えようとした。しかし、頷くことすら出来なかった。目の前で私の答えを待つ彼の姿は、あまりにも誠実で、あまりにもあたたかく。差し伸べられている手を拒もうとすることは、これまで懸命に耐え続けてきた数々の辛苦を遙かに勝る苦しさであった。
 葛藤のただ中、無意識に首を横に振ろうとしている私がいた。
 しかしその刹那、私に対して激昂する桧山の姿が、脳裏に鮮明に蘇った。
「私は……」
 あれだけ流した涙が、また滲み出ようとしていた。
「私は、出来損ないの女です……」
 声が、震えた。だが、私は言い切った。言葉と共に、枯れようとしない涙が溢れ出た。
「何を……」
「あなたのような人に、こんな風に想って頂く価値など、どこにもありません」
 これが私の真実だったからだ。彼は、私という人間の表面だけを見つめ、買いかぶっているに過ぎないのだ。このあたたかな優しい人に、私のような不良品を掴ませることなど、出来るはずがない。
 断固として、私はそう思った。
「なぜ、なぜあなたがそれを決めるのですか!」
 予想だにしない激しい口調で、彼が私を責めた。しかし桧山のそれとは違い、恐ろしさの代わりに彼のもどかしさだけが、私を揺さぶった。
「それは僕が決めることだ! いいですか、僕はあなたが愛おしいのです。あなたと寄り添いたいのです。あなたがそれを拒むとしたら、同じ想いを返して下さらないときだけです!」
「で……でも……ん!」
 抵抗する間もない出来事だった。再び腕に身体を絡め取られ、唇が重なった。彼の吐息は熱く、その熱は私の身体に飛び火した。
 初めて焼かれる、官能の炎だった。
 押しつけられている唇に、彼の情熱の全てがかけられているように感じた。血が滾り、息が詰まりそうになる。眩暈すら覚えそうな激情の中で、私は胸の奥に小さな蕾を見た。彼が私に宿した、たった一つの花の蕾を。
 しかしその蕾に、突如凶悪な掌が迫った。桧山の手だった。暗黒の中に掻き消えるかのように、蕾は掌に握り潰された。
「や……やめて下さい!」
 ありったけの力で彼を押し戻している私がいた。涙が、溢れて止まらなかった。
「あ……す、すみません……僕は……」
「私は……私は……」
 あなたに好意を抱いている。それも、言い表しようもない好意を。
 口にしたくとも、言える勇気はなかった。そして好意を持ちつつも、受け入れることは出来ないなどと。
「ごめんなさい、失礼します」
 慌ててパンプスをつっかけ、その場を去ろうとする私に彼が言った。
「待って下さい! ……実は、今年いっぱいでこの店をたたみます」
 背中にその声を聞いた。走り出そうとする足が止まった。
「田舎に帰って、そこで店を出すことに決めたのです。どうかそれまでにもう一度考えてはくれませんか!」
 彼の必死さとあまりにも唐突な呼びかけが、私を振り返らせた。
「な、何を……」
「僕と共に生きることをです!」
 そう、彼ははっきりと言ったのだ。
「お願いです……決していい加減な気持ちで言っているのではありません。腕の中で泣いたあなたを見て、僕は確信したのです。この気持ちが愛だと。あなたを幸せにしたいのです」
 視界に映る彼の姿は涙に滲んでいたが、強い眼差しが私を捉えて放そうとしなかった。
「もう一度ここへ来て下さい……待っています。あなたは決して、出来損ないなんかではない。そんな風にご自分を卑下してはいけない。僕ならきっと、本当のあなたを、あなた自身に、わからせることが出来ます……」




 結局私は、彼に何の返答も与えることなく、店を後にした。
 彼も、私を追うことをしなかった。

 幸運にもその日のことが桧山に知れることはなく、日常には何の変化もなかった。あくまでも、目に見える範囲内では。
 私の中では劇的ともいえる変化が起きていた。
 酒臭い唇を押しつけられるたび、彼の熱い唇を想った。
 乱暴な愛撫を受けるたび、彼の優しい指を想った。
 布団に組み敷かれて腰を突きつけられるたび、彼のあたたかな胸の中を想った。



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