私の生活には様々な制限があった。
 一人で勝手に外出することを、許されていなかった。近所へ食料品を買い物に行くことすら、前日に報告することを義務づけられていた。仕事を持つことも許されていなかった。妻が外で働くなど対面が悪いというのが、桧山の言い分だった。
 これらの禁止事項は、私という奴隷を家という名の牢獄に閉じこめ、支配者が優越感に浸る為のものだった。加えて、私が他の男と接する機会を作りたくなかったのだろうと今は想像できるが、その頃は考えの及ばないことだった。
 気の合う友人を東京で作る機会はなかった。マンションの住人達は互いに干渉し合うことを嫌ったので、近所付き合いもほとんどなかった。里が、恋しかった。
 私は本当に、桧山という男の世界にのみ生きることを許された人間だった。それが「嫁いだ」ということだと思っていた。自分の世界を持つなど、いや、誰しも持っているなど、考えてみたこともなかった。




 師走の声もそろそろ聞こうかという肌寒い日のことだった。
 書類を忘れたから届けに来いと、会社から電話があった。私が勝手に出かけることは許されないが、桧山の言いつけならばどこへでも行かなければならない。身綺麗にして桧山の会社へ向かった。
 電車に揺られ、会社のビルまで歩いて行き、無事書類を届け終え、私は桧山の許を後にした。昼下がりのオフィス街は人もまばらで、どことなく淋しさが漂っていた。
 慣れないパンプスを履いたせいで、踵に痛みを感じた。歩道の端に寄って、しゃがんでさすった。
 低い溜息がこぼれた。
 それは間違いなく失意の溜息であったのだけれど、何に対しての失意なのか、私にはもうわからなくなっていた。

「あの、大丈夫ですか?」
 背後の、ごく近い場所から声が聞こえた。驚いて、その方を振り返った。振り返ってから、私はまた驚くことになる。
「……あ」
 二人とも同時に、小さな声を漏らした。
「あなたは、桧山さんの」
 そこにいたのは、作務衣にジャンパーを羽織った、彼だった。

「すみません……お言葉に甘えてしまって」
 靴擦れは思ったより酷く、うずくまる私の踵を見た彼は、店に行けば簡単な手当てなら出来ますからと促した。
「いえ、丁度店も閉めている時間ですから、気にしないで下さい」
 確かに彼の言う通り、店のある飲食店が集まったビルは閑散としていた。私はカウンターに座り、調理場の棚を探る彼の姿を目で追っていた。
「ああ、あった。しばらく使わないとどこに置いたか忘れてしまいますね」
 消毒液を手に、彼がカウンターの下をくぐってこちらへやって来て、私は少し狼狽した。
「あ、あの、自分でやれますから」
「ご自分だと見えにくい場所でしょう。こちらを向いて下さい」
 立ち上がろうとする私をやんわりと制して、彼が私の足下にひざまずいた。
 ロングスカートを履いていたから、少し足を上げたところで気になりはしない。しかし、ストッキングを脱いだ素足を、夫以外の男に触れさせるのには抵抗があった。私の戸惑いを見て取ったのか「では、ここに足を乗せて下さい。触れたりはしませんから」と、私の前にカウンターの椅子を一つ差し出した。
 おずおずと、そこにふくらはぎを乗せた。
「痛いかもしれないですけど、少しだけ我慢して下さいね」
 彼は生真面目な顔つきで、踵に消毒液を吹きかける。少し滲みたが、いつも堪えている痛みを思えば、痛いと思うほどのことでもなかった。
「少し乾かさないとバンドエイドが貼れないと思うので……」
「あの、本当に結構です……あとは自分で……」
 手で風を送って傷口を乾かそうとする彼を、制そうと手を伸ばした。はたと、目が合った。なぜか、急激に頬が熱くなっていくのを感じた。彼も反射的に、私の足から手を引っ込めていた。
 この一瞬でお互いが意識し合ったのは間違いなかったが、彼はうろたえるばかりの私と違っていた。何かを考え込むように俯き、再び私に向き直ると、戸惑いを隠しきれぬ表情で口を開いた。
「……驚きました」
 伸ばした足の横にひざまずいたまま、彼は私の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「あなたともう一度こんな風に会うなどと、思いもしなかったです」
 彼の言葉には、偶然に対する単純な感嘆以外の何かが込められている気がした。正体のわからない何かに刺激され、私の頬はなお熱くなっていく。私は彼から目を逸らし、伸ばしたつま先を見つめた。
「もういいかな……ちょっと失礼します」
 桧山に対し、酷く悪いことをしている気がしたのに、彼が足に触れようとすることをとめられなかった。しっとりとした指先が、私のかかとに触れた。
 不意に、形容しがたい感情に囚われた。
 別に何と言うことでもない。彼はただ、事務的に手当てをしてくれているだけだと、自分に言い聞かせようとした。それなのに、丁寧にフィルムを剥がして、真剣な目つきで傷を見つめ、慎重に覆おうとする彼の姿を見ていると、目頭がじんと熱を帯びていった。彼の手はとても優しく、優しさに触れることはうんと久しぶりのことで、身体の一部を慎重に扱われるなど初めての経験で、胸の底から湧き上がった言葉に出来ない感情の全てが、涙腺を突いた。
 押し出されようとする涙を、抑えることが、出来なかった。
「ど……どうしましたか? そんなに痛かったですか?」
 頬が濡れていった。幾筋も涙が滑り落ちた。私自身不可解な涙だった。俯いて、ただほろほろと、流れるままに任せるしかなかった。
 彼が、私の顔を覗き込んだ。両の二の腕に、彼の手が添えられていた。滲む視界に、日溜まりのような彼の姿があった。

 あたたかかった。
 彼の手も、眼差しも、彼の何もかもが、あたたかかった。

 彼の胸が目の前に迫った。次の瞬間には、私は彼の腕の中にいた。
 何度も何度も、掌が私の頭を撫でた。片腕で背中を包まれ、もう一方の手は髪の流れに沿って、絶えず滑りおろされた。優しく。限りなく優しく。
「いいんですよ……」
 子供をあやすように私を撫で続けながら彼が言う。遙か昔に失った、父の腕の中を思った。夫に抱かれていても、父を思い出すことなど一度もなかった。
「痛かったら、痛いと泣いていいんです」
 頭上からの声が、私の全身に、降り注いだ。
 それは私の中に滑り込み、感情を堰き止める栓の全てを解放した。 
「……かった」
 小さすぎる呟きは、きっと彼の耳には届かなかっただろうに。
 それでも彼は受け止めてくれたのだ。彼は「うん」と言って、腕の中の私をいっそう優しく抱いた。
「痛かったです……ずっと、痛かったです……」
 堰を切った涙は、滂沱として止まらなかった。
 彼の与えてくれる日溜まりの中で、私はこの三年間絶えず耐えてきた涙の全てを出し切るかのように、泣き続けた。



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