だから、私はあの夜まで知らずにいたのだ。桧山がどんなに自分勝手で乱暴なセックスをしていたかなど。桧山が私に与える刺激は愛撫とはいえず、暴力だったなどと。そして私は欠陥品などではなく、正常だった。むしろ、呆れるほど、女だった。彼の手によってそれに気付けた。彼が、私の呪縛を解いてくれたのだ。




 桧山と完全な夫婦になれたのは、挙式から実に三ヶ月も後のことであった。
 その日私は、股間を舐められるという経験も初めてした。
「ひっ……!」
 何とも言い難い気色の悪さに思わず叫んでしまい、その瞬間、桧山の動きがピクリと止まった。口に出さずとも、桧山が私の悲鳴を不快に思ったことは間違いなかった。声を出さぬように努めなければ。両手で口を押さえながら、硬く目を瞑った。
 これまで何をされても痛いばかりで、その苦痛を物言わず耐えてきた私だったが、舐められることは痛みを伴わない代わりに新たな方向への苦痛があった。
 なめくじが股間を這い回っているような感触。
 粘ついた液体を身体にじっとりとまとわりつかせ、触れられたくない場所ばかりを執拗に移動し続けている。
 こんなことを連想してしまう私は、女としてだけでなく、人としても欠陥品なのではないかと恐れた。世の女性にとっては、これが本当に快感を呼び起こす行為になるのか。間違いなく下肢を這っているのは夫の舌であるのに、ペニスばかりでなく舌までも人外の物のように感じてしまう私は、精神に異常でもきたしているのではあるまいか。
 事実、気が狂ってしまいそうだった。痛い方がまだ耐えられる。真綿で首を絞められる苦しみとは、こんなことをいうのではないか。このまま耐えきれるかどうかわからない。一刻も早く解放されたい。
 願いが届いたのか、太腿を持ち上げられ、ペニスが突きつけられた。
 唾液で湿っているせいか、二、三度亀頭が滑って外れた。桧山は根本を手で支えたようだった。激痛が、やってきた。
「く……!」
 これまでより深く突き入れられている感覚があった。容赦ない力が数度加えられ、ずり上がろうとする身体を押さえつけられた。
「力を……抜け」
「は……はいっ……」
 必死で力を抜こうとするものの、身体は強ばったままどうにもならない。痛みと恐怖と嫌悪と。布団の上の私はそれだけに支配されていた。
 そこに愛は、すでになかった。
「抜けと言っているだろう!」
「あぐっ! ご、ごめんな……っぐぅ!!」
 限界まで押し伸ばされた肉が、その瞬間裂けた。身体の中心が、激痛にわなないた。傷をいたわることなく硬い肉の棒はめり込んでくる。これを「結ばれた」と表現するなど、あまりにもそぐわなさ過ぎると叫びたかった。
 桧山は更に腰を押しつけてきた。泣きたくないのに、痛さのあまりひとりでに涙が滲み出た。
 これでやっと本当の夫婦になれたのだという感慨は、少なからずあった。しかし私にとってそれは、妻の役目をようやく果たすことができたという義務感から来る安堵でしかなく、愛する夫を受け入れられた悦びとはほど遠い感情だった。そしてその少しの安堵を噛みしめる間もなく、新たな激痛に堪えることを強いられた。
 桧山が私の腰を押さえて、抽送しだしたのだった。傷口を押し広げたままの摩擦は、まさに焼けるような痛みをもたらした。
 許して! 助けて! 誰か……!
 決して声に出せない叫びを喉の奥に押し留め、歯を食いしばり続けた。一秒でも早く終わりの時が訪れることを祈った。引き裂かれた肉が悲鳴をあげ続けた。これまで体験したどの痛みより、抜き差しの痛みは私を苦しめた。身体と共に、精神が引き裂かれていく音が聞こえた。
 どれぐらいこの焼かれるような痛みに耐えただろう。それは突然終わった。低いうめき声と共に、最後の痛みを残してペニスは私から引き抜かれ、次の瞬間首筋になま暖かい液体が飛んできた。続いて鎖骨へ、乳房へ、最後にはへそへ。激痛から解放され放心していたが、しばらくしてから子種を貰えなかったということに気付いた。
 私はすぐにでも、身ごもりたかった。一日も早く母に孫の顔を見せてやりたかった。桧山も両親に対し、同じように思っていると信じていた。
 荒く息を吐きながら私の横に俯せに倒れた夫に、声をかけずにはいられなかった。
「あの……赤ちゃんを……つくるんじゃ……ないの?」
「ああ……」
「こうしたら……出来ないのでは……」
 恐る恐る尋ねた私に、桧山は満たされた笑顔でこう答えた。
「まだいいじゃないか。やっと出来たんだ。もうしばらく愉しんでからで」
 首筋を、人肌になった粘液が這うように伝っていった。なめくじに這われていた方が、幾分かマシかと思えるような不快さだった。

 やっと、夫婦になれた。しかし、だからといって、私たちのひずみが修復されていくわけではなかった。むしろ、それは大きくなる一方だった。

 私にとって夜の営みは、その後も変わらず苦痛でしかなかった。変わらないどころか、日を追うごとに苦痛は増していった。挿入の痛み自体は軽減されていったものの、乳房を握りつぶされるほど揉まれたり、襞を激しく擦られることに快楽は一切見出せなかった。荒々しい前戯には、愛情も感じられなかった。濡れるという感覚が、どんなものかもわからないままだった。
 桧山はそのうちに、フェラチオをすることを私に強要しだした。
 膝立ちになった桧山に縋るように跪き、私は股間のものを口に含む。唇を丸めろ、歯を立てるな。普通に性交をしているときは無口な桧山が、これをしているときだけはあれこれ指図を出してきた。私はそれに従った。逆らうことなど、恐ろしくて出来なかった。

 私は、頼れる存在であったはずの夫に、恐怖していた。
 性生活の問題だけではなく、日常にもひずみが走っていたのだ。
 妻になってみて初めてわかったこと。桧山は徹底的に、外面の良い人間だった。ちょっとした知り合い、会社の人間、友人、私の母、自身の両親にまで。関わり合う人間全てに良い顔をすることを、自らに義務づけているような男だったのだ。
 しかし唯一例外が存在した。妻である私だ。常に周囲に気を使い、ある時は男気溢れる先輩に、ある時は気の利く友人に、ある時は有能で忠実な部下に、ある時は理想的な婿に成りきる。そうすることで溜まったストレスのはけ口に使われるのが、彼にとっての妻という存在だった。
 些細なことで、烈火のごとく怒鳴られた。みそ汁の味が薄い、洗面台に髪の毛が一本落ちていた、言いつけに対しての返事が良くなかった、果ては、顔が気にくわなかった。
 ただの八つ当たりであり、私に叱責されるほどの落ち度はなかったと今はわかる。
 しかし男性に激昂されることに慣れていなく、物事の善悪を正常に判断する力を削ぎ落とされつつあった当時の私は、桧山が憤るたびに自分は至らない妻なのだとうちひしがれ、そんな自分を嫌悪した。桧山はまた弁の立つ男で、私の弱々しい反論など簡単にねじ伏せてしまう力を持っていた。波が岩を少しずつ削っていくように、私は桧山によって自分をなくしていった。



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