彼の腕を枕にして、私は厚い胸に縋り付いていた。窓からの月明かりに、淡く照らされた鎖骨が美しく、飽きることなく指で辿っていた。
 汗が滲むこめかみに、彼が唇を寄せる。見上げた彼の瞳は、下弦の朧月のように優しげだった。
 私の薬指も、月光に照らされ鈍く光りを放つ。
 終わるのだ。この夜は、やがて終わる。
 何もかもを忘れたくない。この目にしっかりと刻みつけたい。
 彼は、こんな想いで私が瞳を覗き込んでいると、見抜いていた。
 そう、始めから終わりに至るまで、彼は私の全てをわかっていた。
「あなたはこれを……一夜限りの過ちだと思っているでしょう」
 隠していた気持ちを見透かされ、少なからずうろたえた。
 彼にはどうして、私の何もかもがわかってしまうのだろうか。黙ってひとつ、頷くことしか出来なかった。
「僕は、そうとは思っていませんよ」
 俯く私の髪を、彼は指で梳く。どこまでも優しい指に、つい甘えてしまいたくなる。
「……無理です……」
「無理なものか」
 彼は私の消え入りそうな声を、即座に否定した。
 そして、髪に唇を埋めながら穏やかに語り出したのだった。
「両親の反対を振り切って十八で上京して以来、東京で身を立てることこそが人生の成功だと、がむしゃらに働いてきました」
 優しい声。恵みの雨のごとく私に降り注ぎ、私を潤す、優しい声。
「でもね、違っていたことに気が付いたんです。僕はただ、旨い料理を振る舞って、それを食べる人の喜ぶ顔が見たいだけだったんですよ。東京に拘る必要はどこにもないと、十年経ってやっと気が付けました。自分は生まれ育った土地を、捨てられない人間なんだということも」
 彼が云わんとしていることが何かわかり、涙が抑えられなくなっていった。
「そりゃあ両親には言われましたよ。それ見ろ、私らが十年前に言った通りじゃないかって。でもね、人間って間違えないとわからない生き物なんですよ。その時は間違ってないって信じたんだから、責められても詮無いことなんです。それで気付いたら、その時にやり直せばいい。一度自分で選んだのだ、なんて意地になって、過去の自分に操を立てる必要なんかどこにもないんですよ。わかりますか? 気付いたら、最初の位置まで戻って、やり直していいんです」
 彼の手は、私の髪を滑る。限りなく優しく滑り続ける。彼の肩に、私の流した涙が貯まっていく。
「僕は待っています。あなたが振り出しに戻ってくるのを。僕らが生まれ育った田舎で、ずっと待っていますよ」




 翌日、遅い朝食を共にして、彼と連れ立ってアパートを出た。道すがら見つけた文具店で、彼は小さなアドレス帳を一冊買った。そのYのページを開き「新しい店の電話番号です」と、自分の名前と一連の数字を書き込んで渡してきた。
「僕はここにいます。あなたが振り出しに戻ることの、力にならせて下さい」
 私は、差し出されたそれを、大切に受け取った。

 列車の扉に遮られても、彼はその場から離れようとしなかった。やがてゆっくりと彼から離れていく私を追いかけ、ホームの端で留まった。彼は最後まで、さよならとは言わず、手を振りもしなかった。
 彼の姿が見えなくなった頃、私の決意は、ようやく、固まっていた。




 ―――結局は、それから離婚が成立するまで二年もの歳月がかかってしまった。
 こうして列車に揺られていると、長い長い夢でも見ていたかのように思う。
 母に全てを話し理解を得るのに、まずは時間がかかった。私に全く落ち度がなかったとは言えまい、互いに反省してやり直すことは出来ないかというのが、母の望みだった。至極尤もな望みだと思ったが、私には訊けなかった。
 その母をやっとのことで説得し、桧山に離婚を切り出してからが本当の地獄だった。やむことない暴力と強姦。離婚届を置いて実家へ帰っても連れ戻され、あるときは監禁紛いなことまでされた。母に怪我を負わせてしまったこともあった。幸いにも軽傷で済んだが、狂気に駆られた桧山の姿に、警察へ駆け込めばどんな報復があるかわからないと恐れた。この王国の王として君臨することを当然としている桧山自身に、奴隷を解放すると心から宣言させなければ、全ての解決にはならないのだと悟った。

 私は、あの日貰った彼の愛に、報いたかった。しかし幾度も諦めに支配され、無気力になった。
 やはりあの夜、彼に抱かれる前に決めていたように、思い出だけを胸にして、桧山に隷属していくのが私の人生なのかと。何をどう足掻いても、私にはこの王国の奴隷として生きる道しか用意されていないのではないかと。
 そんなときこのYのページを見つめると、彼のくれた言葉が鮮明に蘇るのだった。

 無理なものか。
 振り出しに戻ってもいいんです。

 いつか戻れる日が、この私にも来るのだろうか。私さえ諦めなければ、それは叶うのだろうか。
 絶望の最中にあっても、一筋の光りのごとく、その言葉は私を照らした。このアドレス帳は私の、希望であり、癒しであり、勇気だった。

 時を同じくして、桧山の王国は外側からも崩れようとしていた。それがはっきりと私の目に映ったのは、一年が経過する頃だった。
 あの師走から、頓に出張が多くなった。初めは二、三日だったものが、回を重ねるごとに期間が長くなっていった。出張先は不定だった。敏感な彼はそれに、失脚への序曲を聴いていた。
 余裕を無くした男は、日増しに人前でも苛立ちを隠せぬようになっていった。メッキが剥がれ、本性を剥き出しにしつつある彼に、東京は手加減を知らなかった。一年半の後、桧山の転勤が決定した。事実上の左遷だった。

 奴隷の執拗な反乱と、国外から見た権威の失墜に、ついに王はこうべを垂れ、冠は転げ落ちた。
 十月の初めだった。

 冠を失った桧山を見て、私は思った。彼もまた、私と同じく心弱い人間だったのだと。
 そして母の言うように、彼を王国の王としてしまった原因は、少なからず私にもあったのだ。
 破り捨て続けた離婚届に黙って判を押し、すまなかったと差し出されたとき、今ならばもう一度この人とやり直せるかもしれないという考えが頭をよぎった。しかし、愛情からくる想いではなかった。哀れみと、情。哀しいほどに、その二つの感情だけであった。
 桧山はそれに縋ることを良しとしなかった。また私も、これらの感情だけでは彼と共に「生きて」いくことは出来ないと知っていた。東京を後にする背中を見たのが、最後だった。



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