もうすぐ、かつて住み慣れた街へ着く。彼のいる街へ。
 私は小さな建材屋に職を得ることが出来た。社長夫妻は出戻りになる私を白い目で見ないばかりか、協力は惜しまないと申し出てくれるような、心温かい人たちであった。その言葉通り、母と二人で住めるような住居を用意してくれた。腰を悪くしてしまった母に代わり、今日の引っ越しまで手伝ってくれるという。改札口を出たところで、落ち合う予定だった。

 彼には、一度も連絡をしていない。これからも、この電話番号を回すつもりはない。

 瑞枝の幸せこそが、私の幸せだと言った母。
 幸せですかと問うた彼。
 あの頃はわからなかった「しあわせ」が、今の私には、わかる。
 巡り逢うべき人に巡り逢うことこそが「しあわせ」なのだ。ならばこの胸に、あの日咲いた花が生き続ける限り、私は幸せなのだ。
 彼にまた、諭されるだろうか。もっと貪欲になっていいのですと。
 しかし、二年が経っていた。それも、ただ一度きりの夜からの、二年。彼ほどの人ならばきっと、私の他に「しあわせ」を得ているに違いなかった。それを壊すことは、どうしてもしたくなかった。
 彼が近しい空の下にいる。
 それだけで私は、日溜まりを感じることが出来る。
 胸に咲く花に、太陽と水を、永久に恵み続けて貰えるのだ。

 列車がホームへ滑り込む。私はアドレス帳を静かに閉じ、鞄の中に丁寧に仕舞った。
 ただ今帰りました。
 心の中でそう呟きながら、列車を降りた。

 改札口が見えてくる。新しい生活が待っている。振り出しへ戻るのはもう間もなくだ。私の心にだけ誓った彼との約束が、果たされようとしていた。

 そこで、足が止まった。

 改札の向こうには、多くの人が行き来していた。その人影が尽きた一瞬、私の目に飛び込んできた懐かしい姿に、目を疑った。

「なぜ……」
 進もうとする足が、空を踏んだ。視界が揺れて、滲み出した。私を見つけたのか、切符を切る駅員のすぐ傍まで駆け寄ってくるのは―――。
 もう記憶の中でしか見ることのないと思っていた笑顔が、あの日とまるで変わらない笑顔が、私の名を呼ぶ。
 彼が、私の名を呼ぶ。
「瑞枝さん!」

「どうして!? どうしてここに……」
 幻ではなかった。私を抱き留めた彼は、あの夜と同じあたたかさと情熱を、惜しむことなく私に与えた。
「社長夫妻は、僕の店のお得意様なのです」
 見上げた彼の瞳も、涙に潤んでいる。
「新しく雇うことになったという女性の話に、あなたの名前が聞けたときの僕の驚きが、わかりますか?」
「……!」
 呼吸が、止まるかと、思った。
 彼しか目に入らなくなっていく。
 周囲の人たちも、ここがどこであるかも、忘れつつあった。
「僕は三度偶然に恵まれました。一度目は桧山氏があなたを店に連れてきてくれた。二度目は靴擦れに困るあなたを見つけた。三度目はこれです。偶然が三度重なったら、それはもう、必然ですよね……!」
 持っていた鞄が手から離れた。彼が苦しいほどの力で私を抱きしめる。私も有らん限りの力で、彼に抱きついた。
「あなたが僕を頼ろうとしてくれなかった恨み言を、これからたっぷりと聞いて貰いますよ」
 陰ることのない日溜まりが、私を包んでいた。
 その中はあたたかい。限りなく、あたたかい。
「今度こそ答えて下さい。幸せですか……?」
 花が、彩を深めていった。
 その香りは私を酔わせていく。幸福に、酔わせていく。
 春を見上げる。私の為だけにいてくれる、春を。
「はい……!」

 私は再び「しあわせ」を得た。
 刹那に終わることのない、続いていく「しあわせ」を―――。


― 了 ―

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ちびえま