座席に落ち着いて数分足らずで、滑るように私の五年間は遠ざかっていった。

 そこには磁力でもあるかのように思っていた。私はその人知の及ばない力から逃れることなく、きっとこの地で一生を終えるのだと、諦めの中で静かに悟っていた。それが、私に与えられた人生なのだと。
 しかし今、あっけないほど簡単に、見知った風景は私から離れていく。何かを感じる暇さえないほどの速度で。
 本当は、磁力など無かったのだ。それは私の心弱さが創り出す、幻だった。
 めまぐるしく変わる窓の外の風景から、膝の上にひらいた小さなアドレス帳に目を落とした。
 幾度このページをひらいただろう。まだ真新しさの残るアドレス帳。Yの一ページだけが、私の指痕で年輪を重ねている。そこにたったひとつだけ書き込まれた、彼の電話番号。この二年の間、見つめるだけで一度もかけることのなかった番号。もう見ずとも空で言えるほどになってしまったその番号を、愛おしく指で辿った。あの夜、薄闇の中で彼の鎖骨を指で辿ったように、そっと。
 月並みだけれど、彼とのあの一夜がなかったら、今日の私はなかった。
 目を閉じるだけで昨日のことのように思い出せる記憶の束を、私は今も胸の奥でしっかりと抱きしめている。


 しあわせの花

  by sanagi


 地味で、平凡で、退屈な女。
 そんな形容が、私にはぴったりと当てはまる。それは昔も、一歩を踏み出した今も変わることがない。誰もを惹きつける華やかさはないが、かといって嫌悪を与えるほど陰気でもない。気の利いた話は出来ないが、かといって驚くほど無口なわけでもない。ごくごく普通の、どこにでもいるような目立たない女。そんな女には当然華やかな人生など用意されているわけはなく、浮いた話もなく、私は二十五才で見合い結婚をした。
 私には父がない。私が中学生の頃、事故で亡くなってしまったのだ。家族は母と私の二人きりになってしまった。一家の大黒柱を失ってしまった私たちは、いつもどこか不安で、寄り添うようにそれからを生きた。
 早く頼りになる人を見つけて―――。
 口癖のように言う母こそが、誰よりも不安に苛まれていたのだろう。
 早く母を安心させてあげたい。孫の顔も見せてあげたい。それがきっと母の生き甲斐になる。
 しかし異性に対して消極的な私には自分で恋人を見つけることなど出来ず、また、稀に好意を示されても母の言うような頼りになる男性とは言い難い相手であったりして、私はその見合いまで色恋沙汰と無縁の人生を送っていた。

 嫁ぐにあたって、私には一つだけ希望していることがあった。
 同居までは出来なくとも、母の傍で暮らせること。
 親戚はいるものの、母の老後の世話が出来るのは私しかいない。そして、私自身心から、一生母の傍にいてあげたいと思っていた。母の苦労に報いたかったのだ。
 そうして紹介された見合い相手―――桧山は、七つ年上の会社員だった。当時勤めていた会社の上司の、遠縁ということだった。

 桧山の第一印象は、すこぶる良かった。明るく快活な話し方。豪快な笑顔。異性と話すときはいつも萎縮してしまう私だったが、見合いというただでさえも緊張する席だというのに、桧山の巧みなリードで驚くほど気負わずに時を過ごすことが出来た。学生時代に柔道をやっていたというその身体はがっしりしていて、家庭に入ったらまさに大黒柱といえるだろう頼もしさがあった。
 私はこれまでの人生で、好みの異性像について、考えたことがなかった。また、自分と合うのはどんな男性であるかも、わからなかった。しかしその後数回のデートを重ねるうち、確実に桧山に惹かれていく自分がいるのを感じた。この人となら幸せになれるかもしれない。母もきっと喜んでくれるだろう。桧山と結婚したいという気持ちが、ごく自然に湧き上がっていった。
 
 しかし願ってもない出会いに感謝する一方で、この幸運があまりにも出来すぎているような気がして、不安だった。目立つほど見目良いわけではない桧山だったが、その明るさや男らしさがあれば、見合いなどしなくても充分結婚相手を見つけられるだろうにと思った。なにも私のようなつまらない女と一生を共にすることはない、一体この人は私の何が良くて結婚したいと思ったのだろう。異性から見た私に、格別な魅力など有りはしないのに。私はこれまでの経験からそう信じていた。
 先方から正式な申し込みを貰い、迷いながらも桧山に尋ねた。その答えを聞かなければ、心から安心して結婚は出来ないと思った。
「いい奥さんになってくれそうだからだよ」
 怖々答えを求める私に、桧山は迷いない眼差しで告げた。そして、初めて会ったときから私を魅了していた自信に満ちた笑顔で、こう言ったのだ。
「二人で幸せな家庭を作ろう」


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