約束の時間にはまだ五分ほどあったが、出かける準備はすっかり出来ている。幸野は多分時間きっかりに、下から電話をしてくる筈だ。
 気温の高い状態が数日続き、桜の開花宣言が出された。花冷えの気候を挟んで、そろそろ桜も散り始める頃、幸野から連絡があった。「お花見に行きませんか」と言う。あの夜から一週間が経っていた。
 何のことはない、同僚と花見をするだけだ。行き先もセッティングも全て幸野にお任せコースで、身一つで良いという気軽さに、つい乗ってしまったのだが。
 職場での幸野の態度は極めて普通だったので、改めて二人で会う事を考えると、妙に心が騒ぐ。別に特別な関係が始まったわけじゃない。奔流に押し流されたような記憶は鮮明だが、胸のしるしは跡形もなかった。
 未だに失恋を引きずり、街中で似た背格好の人を見ると振り返る癖は変わらない。幸野の言うとおり、強いて忘れる必要もないのだ。それでも、膿んだ傷口にうっすら膜が張るように、触れるだけで飛び上がるような胸の痛みは、もう無い。少しずつだが、日にち薬が効いていた。


 春が行き過ぎるのは早い。N公園の樹木はすっかり様相を変え、あの夜揺れていた雪柳も新緑の枝葉を茂らせている。満開の桜に誘われて、今夜はそぞろ歩きをする人影がある。
 この場所でも花見ができるのではと提案しそうになり、思い止まった。生々しい感覚が蘇りそうになったから。
 車の後部座席には、来る途中で買いこんできたらしき、食料の入った手提げ袋があった。おいしそうな香りも漂って、空腹を刺激する。
「クーラーボックスでビールも冷えてますから」
 準備は万端だと幸野がアピールする。
「車、なのに?」
「飲むのは夏目さんですよ、もちろん」
 なるほど。遠慮の必要はないらしい。
 助手席に乗り込みシートベルトを締めると、フロントガラスを見つめたまま幸野が言う。
「出かける前に、電話の約束を確認させてください」
「どうぞ」
 とくんと大きく心臓が跳ねたが、平静を装って答えた。
 幸野の手が、膝上からスカートの下に潜る。ストッキングの感触を捉えて、しまったという顔をした。
「ストッキングはダメだなんて、言わなかったでしょ?」
「そうですね」
 さして落胆する様子もなく、上へと撫で回す。手の動きにつれ、太腿の際までスカートがたくし上げられた。指先が恥丘の茂みに辿りつく。陰毛がストッキングに透け、薄墨色に翳ったその場所を、ゆっくりと撫でる。
 高鳴り始めた鼓動を抑えるため、大きく息を吐いた。
 幸野は言ったのだ。できればスカートで、ショーツは穿かずに来て下さいと。その申し出に強制力は無かったのに。
「ありがとう。じゃあ、出かけましょうか」
 点検を終えると、満足げにスカートの裾を整えた。何事も無かったように車が走り出す。
 閉じた瞼の裏で、あの白い雪柳が揺れる。触れられた部分が、ほんのり熱を持っていた。



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